『戦争の法』全国解禁!

九州限定で再刊した衝撃の傑作がついに全国解禁!

 大変お待たせ致しました! 目標部数を達成いたしましたので、解禁いたします!
 たくさんの本屋さんで、「あ、この本いいんだよ」そんな風に、お声がけいただけたら嬉しいです。是非、お求めください。
 あなたがこの本を手にして、何を手に入れるのか、それを弊舎はとても楽しみにしています。

■わが町の本屋さんで購入したい! と思ってくださったら
・書店さんで「この本が欲しいです!」とお申し込みください。
 できれば以下のISBN番号をメモしていくか、この画面をご提示くださいね!

戦争の法』

「日本だよな、ここは」

──この小説は、日本文学における地方の描き方に対する異議として書かれた。
そう語る著者が突きつけたかったこの国の姿。

成文化された日本国の法だけではなく、人を「日本人」というのっぺりした型に塗り込める文化的な「法」も取り払われた中でなお、人を拘束する無法の、暗黙の法。「戦争の法」という題が指し示すものは明白だ。

四半世紀を経て、著者本人による解説を収録した新版です。
この極上の小説を、どうぞご堪能ください。

『戦争の法』IUS BELLI

さて、私は語りという隠れ頭巾を頭に載せて退場しよう。時は一九七五年。つまり、まだソビエト連邦なる国家が地上に存在し、存在するばかりではなく悪の帝国でさえあった頃。県は今しも風雲に見舞われようとしていた……。

2017年12月23日刊行
佐藤亜紀著
装画 清水美樹
ライブラリー版サイズ(160mm×110mm) 418頁
定価:本体1,204円
ISBN:978-4-908543-09-8

取扱:九州(原則)熊本ネット TEL:096-370-0771 FAX:096-370-0348
   全国(取次流通対応:返品要了解)H.A.Bookstore FAX: 03-5303-9495 
   ※H.A.Bookstore取扱分についての発送は3月上旬を予定しています。



豆知識 鹿の基礎情報 

 *解禁できる本は「単著」のみ
 ⇒これからも、『片隅』は九州限定です。

 *解禁は『目標部数』達成後!
 ⇒それまでは、伽鹿舎の本は九州限定。早く解禁になってみんなにお勧めしたい! と思ってくださる方は、ぜひとも「九州で」お求めください!
 もしかしたら、目標に届かないかもしれません。もしかしたら、うーーんと早く全国解禁さらには 重版 になるかもしれません。九州の本屋さんでしっかり手にとってもらえた本たちだけが、全国に飛び立ちます。
 ちょっぴりわくわくしませんか? 応援している本を、送り出したくなっちゃいませんか?
 今までも、これからも、伽鹿舎は九州の本屋さんと共にがんばります!



跳ぶ! 鹿 ──九州限定出版社の挑戦

この度、九州限定出版社伽鹿舎は一般社団法人となりました。
これまでの経験を元に、更なる飛躍をすべく尽力してまいります。

■九州を、本の島に■

・初版千部完売までは九州限定で九州の本屋さんを応援すること。
・刊行する本の基準は『あたらしいもの』そして『未来に残したいもの』

伽鹿舎は、出版とその普及・振興に関する活動を行い、もって九州沖縄の出版文化の向上と発展に寄与し、ひいては文化及び芸術の振興ならびに児童又は青少年の健全な育成に貢献することを目指します。

どうぞ、今後とも変わらぬご支援を賜りますよう、そしてご期待いただけますよう心からお願い申し上げます。

なお、新体制での始動はサン・ジョルディの日である4月23日を予定しておりますので、詳細については追ってお知らせいたします。
まずはとりいそぎ、ご報告まで。

 新しい、出版の幕開けを、伽鹿舎と。

平成30年4月1日

一般社団法人 伽鹿舎
理事 山下 隆生(熊本)
理事 前畑 文隆(大分)
理事 松井 祐輔(東京)

■伽鹿舎レーベル
【片隅】(既刊01〜04):九州の本屋さんからしか手に入れられない、とびきりの贈り物
すべて読み切りのみの、軽くてスタイリッシュな本を目指しました。
※九州限定販売

【伽鹿舎QUINOAZ】 :昨日から、明日へ
手渡すように本当に残したいものだけを、ライブラリー版でお届けします。
※初版千部は九州限定。千部完売ののち、全国流通。
<既刊>
『幸福はどこにある』フランソワ・ルロール/高橋啓(全国流通済)
『抄訳 アフリカの印象』レーモン・ルーセル×坂口恭平/國分俊宏(全国流通済)
『世界のすべての朝は』パスカル・キニャール/高橋啓(全国流通済)
『世界のすべての朝は(特装版)』(伽鹿舎直販限定販売)
『戦争の法』佐藤亜紀

【伽鹿舎cerf】 :誰かの人生は、それ自体が文学だ
新書版でいつでも読める、小さくて大きな『誰かの物語』をお届けします。
※初回から全国流通予定
『僕には明日しかない!』サン・ムラタ(近刊)

「おれたちは一体どこにいるんだ」:佐藤亜紀『戦争の法』復刊!!

佐藤亜紀初期の傑作長編、『スウィングしなけりゃ意味がない』と共に今こそ読みたい〝地場産業の倅三部作〟の第一作が復刊!
 
 ※通販については、ページ後半をご覧ください。
 
 
『バルタザールの遍歴』以降、常に鮮烈な作品を放ち続ける佐藤亜紀の初期傑作長編。
 1975年、N***県独立── 
 ソビエト連邦共和国の庇護下で成立した社会主義体制のもと、人々は欲望の赴くままに奔走する。
 ツキにツキまくった〝伍長〟、繊細な美貌の天才狙撃手、一癖も二癖もある登場人物たちの〝戦争譚〟を、自ら「信用できない語り手」と嘯く主人公が語る回想録。
 
 

「日本だよな、ここは」

 
──この小説は、日本文学における地方の描き方に対する異議として書かれた。
そう語る著者が突きつけたかったこの国の姿。
 
 

成文化された日本国の法だけではなく、人を「日本人」というのっぺりした型に塗り込める文化的な「法」も取り払われた中でなお、人を拘束する無法の、暗黙の法。「戦争の法」という題が指し示すものは明白だ。

 
四半世紀を経て、著者本人による解説を収録した新版です。
この極上の小説を、どうぞご堪能ください。
 
 

09_sensou『戦争の法』IUS BELLI
 
さて、私は語りという隠れ頭巾を頭に載せて退場しよう。時は一九七五年。つまり、まだソビエト連邦なる国家が地上に存在し、存在するばかりではなく悪の帝国でさえあった頃。県は今しも風雲に見舞われようとしていた……。
 
 
2017年12月23日刊行
佐藤亜紀著
装画 清水美樹
ライブラリー版サイズ(160mm×110mm) 418頁
定価:税込み1,300円
九州限定 ISBN:978-4-908543-09-8
取扱取次:熊本ネット

■刊行が大幅に遅れましたことを伏してお詫び申し上げます。
 
■本書から、九州外の書店さんでもHABさんとの直接取引をしておられ、買い切りで仕入れていただける書店さんに限って販売を致します。
 九州の販売店についてはサイトでご確認ください。こちら

■九州外取扱書店様
ひるねこBOOKSさん(東京)
Titleさん(東京)
書肆スーベニアさん(東京)
双子のライオン堂さん(東京)
H.A.Bookstoreさん(東京)
本屋B&Bさん(東京)
ときわ書房志津ステーションビル店さん(千葉)
書楽さん(埼玉)
野帆書店さん(秋田)
戸田書店静岡本店さん
敷島書店さん(山梨)
七五書店さん(名古屋)
1003さん(神戸)
恵文社一乗寺店さん(京都)
知遊堂亀貝店さん(新潟)
※2018年1月6日現在

 

 

■九州外への通販受付書店(詳細は各店舗にご確認ください)
*天野屋書店(熊本) 096-352-7874 :郵便振替、代金引換又は銀行振込 電話、FAX(096-351-1628)及び電子メール(amanoya@kosho.ne.jp)の何れでも可
*ブックスキューブリック(福岡) 092-711-1180(けやき通り)092-645-0630(箱崎) 営業時間: 11:00~20:00 http://store.shopping.yahoo.co.jp/kubrick/
*蔦屋書店熊本三年坂店(熊本) 096-212-9111 営業時間: 9:00~26:00 :代引き対応
*晃星堂書店(大分) 097-533-0231 営業時間: 8:40~20:00 http://www.kouseidou.net/contact.php
*紀伊國屋書店各店(福岡・大分・熊本) :代引き対応
 福岡本店 092-434-3100 営業時間:10:00~21:00
 ゆめタウン博多店 092-643-6721 営業時間:10:00~22:00
 久留米店 0942-45-7170 営業時間:10:00~22:00
 大分店 097-552-6100 営業時間:10:00~21:00
 熊本はません店 096-377-1330 営業時間:10:00~22:00
 熊本光の森店 096-233-1700 営業時間:10:00~22:00
*リブロ大分トキハ店(大分) 097-573-3033 営業時間: 10:00~19:00 :代引き対応
*リブロ福岡天神店(福岡) 092-717-5180 営業時間: 10:00~20:00 :代引き対応
*ナツメ書店(福岡) メール対応 natumebooks@gmail.com(@を半角で)
 お好きな対応店様でお申し込みください! あなたの「なじみの本屋さん」が九州に出来ますように!
■東京限定 南阿蘇の「ひなた文庫」からの取り寄せができます!
*H.A.Bookstor(蔵前) 休日のみ開店 :取寄せ対応 詳細伽鹿舎×ひなた文庫×H.A.B
*双子のライオン堂(赤坂) 水・木・金・土:15:00~21:00 :取寄せ対応 
■東京限定 長崎の「ひとやすみ書店」からの取り寄せができます!
*Tsugubooks(清澄白河):取寄せ対応 
 
※九州外の方への通販を行うことが出来る書店さん、見本誌を置きたいという全国の書店さんは是非当舎にお知らせください。
 katasumi*kaji-ka.jp まで(*を@に変えて送付してください)

 

■当舎による直接通信販売
上記書店等が利用できない、という方につきましては、直接通販をご利用ください。
九州内の書店応援という主旨から、当舎では送料手数料を設定しております。
※以下の注意書きを必ず熟読の上、ご利用ください。
受付後、東京スタッフまたは熊本スタッフにより発送されます。
いずれも決済確認後一週間~10日程度の発送となります。
 ・複数お申し込みの場合でも、送料手数料は変わりませんので悪しからずご了承ください。
※領収書等の発行はいたしておりません。悪しからずご了承ください。
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本屋が「在る」こと、本が「生きている」こと

 前回、坂口恭平に張り合ってヘンテコな絵を描いたからだろうか。祖父の畑を自由に使っていいということを聞いたとき、「あ、モバイルハウス建てて本屋やろう」という考えが自然に浮かんできた。
 
 三週間後、僕は熊本にいた。もちろん坂口恭平作のモバイルハウスを見るため、そしてひなた文庫でのイベントと熊本書店巡りツアーに参加するためだ。でもとにかく、そんな目的は措いといていいほど熊本の書店と街そのものに惹かれてしまった、というのがとりあえずの結論である。
 とはいえ困ったこともあった。噂通りいたるところに奴がいて、オーウェルの『一九八四年』さながら“KUMAMON is Watching You” な世界だったのだ。また、奴が仕事を選ばないというのも事実のようで、アーケードの入り口には大体ぶら下がっていたのだが、こちらはアトウッド『侍女の物語』を想起させる風景だった。こう書くと熊本がディストピアのようだが、とにかくこれから熊本に行く人は気をつけたほうがいい。奴のお腹に癒された者は皆、2+2=4ではなく2+2=KUMAMON LOVEとなってしまうのだ。逃れる術を失ってしまう。いやー。くまったくまった。
 
 熊本を構成する「熊」の話はここまでにして、ここからは「本」の話をする。
 二日間で多くの書店を巡った。すべてをここで紹介することはしないが、とにかくよくここまで質の高い書店が揃っているなぁ、と驚いた。ぜひ、神出鬼没の熊に気をつけながら足を運んで確かめてほしい。
 ただせっかくだからひとつくらい紹介しておこう。伽鹿舎と深いかかわりのある古書店「天野屋」さんに今回の書店巡りツアーでは大変お世話になった。まさに拠点状態で、何度ここを経由したかわからないくらい立ち寄った。店主の柏原さんには本当に感謝しているのだが、人当たりの良さというか、人を惹きつける引力のようなものがすごいのだ。まず伽鹿舎が引き寄せられ、次に僕を含めた伽鹿舎ファンが引き寄せられる、つまり柏原さんを中心とした銀河系が誕生している。柏原さんは太陽神ラーなのかもしれない。ラー柏原。あれ? 途端に売れない芸人っぽくなってしまった。
 とまあ、実はこの天野屋で一冊の本に出会ったことが、今回のテーマを考えるきっかけのひとつになっている。その本は戦前の一九三〇年代に日本で刊行された「ヒトラーの男らしさを讃える」内容のもので、天野屋の棚にごく自然に存在していた。
 おそらくこの本は刊行された当時はそこそこ、あるいはかなり売れたのではないだろうか。ドイツと同盟国だったこと、そして日本も全体主義化していたことを考えると、少なくとも好意的に受け入れられていたことは想像に難くない。つまりこの本はかつて「生きていた」。そして現代でもここ天野屋で「生きていた」がゆえに、僕がその存在に気づき、「こんな本がかつては当たり前のものとして売られていたのか」という強い衝撃をもたらしたのだ。
 おそらく、いまこの瞬間も天野屋の棚で息をしていて、棚を巡ってその本に出会った者に何がしかの感情を抱かせているのだろう。過去、そして未来へと生き続ける本があり、そうやって本を生かし続ける「生きている本屋」が、熊本には天野屋以外にもまだまだたくさん存在していた。生き残っていた。
 
 本屋が死ぬ。あるいは本屋がなくなる。または死んだ本屋とは。改めてその意味を考えてみる。
 どんどん本屋がなくなっている。でも新しい本屋も誕生している。でもその新しく生まれた(あるいは生まれ変わった) 本屋は、果たして息をしているのだろうか。その本屋のなかに存在している本は、息をしているのだろうか。
 先ほど「天野屋では本が生きていた」と表現した。正確には違うのかもしれない。本はずっと棚のなかで仮死状態で、人の目(手) に触れた瞬間に息をし始めるのではないか。だから本屋は本が息を吹き返すために、つまり読んでもらうために、あらゆる手段を講ずる。そしてその努力をしている本屋が、「生きている」本屋なのではないか。
 本屋がそこに「存在する」ことと、「生きている」ことは決定的に違う。しかしそこを混同したままでは、もちろん本屋を残そうという想いは認めるが、本が死んでいる本屋、息をしていない本屋が生まれてしまう。そして残念ながら、そういった本屋が多く誕生しているように思える(もちろん「本は二の次でよい」という意思があってのことなら問題ない。それは僕がここで話をしている本屋ではないし、そのような括弧付きの「本屋」の存在を否定するつもりもない。むしろ明確な意思を持って「本のある空間」を作っているのだから、感謝の気持ちしかない)。
 あまりの厳しい現状に、本屋を残すためには「利益」を得なくてはならない、という思いが強くなってしまっているのかもしれない。だから例えば粗利のいいカフェを併設する。しかし、確かに利益は増加しているかもしれないし結果として本屋は残っているけど、そこにある本は息をしているのだろうか。あるいは仮死状態から復活させてもらえているのだろうか。その本は、手に取ってもらえて、読んでもらえて、その人のなかに生き続けることはできるのだろうか。本屋を残すためには利益が必要だけど、その利益のために本が殺されている本屋は、果たして何屋なんだろうか。
 
 人口はこれから減少し続け、ゆえに経済も発展する見込みのない日本では、出版業界に限らずどの業界も「たくさんの」利益を得ることは難しくなっていくだろう。本屋なんてジリ貧中のジリ貧だ。この考え方じゃ未来はないのではないか。少なくとも、「誰でも」本屋になれる未来は訪れない。
 じゃあ思い切ってパラダイムシフト、コペルニクス的転回をしてみようじゃないか。
 
 「利益は出ているが本が死んでいる本屋」の対極、それは「利益は出てないが本は生きている本屋」だ。なおかつそれで存在し続けることができればいいのだ。
 なんだ。簡単じゃないか。要はコストを限りなくゼロにすればいいのだ。本屋にとって大きなコストとなるのは人件費と家賃だ。だったら、店員がいなくても回る仕組みと、家賃がかからない店舗を持てばいい。
 幸運なことに、それができる場所を僕は手に入れることができた。だから僕はモバイルハウスを建てる。ソーラー発電で必要最低限の電力を賄う。コンポストトイレで「再生」した肥料は畑に使う。これで家賃・維持費はほぼゼロに抑えられる。人件費は僕自身にしかかからない。それに店主不在でも営業できることは三鷹の無人古本屋BOOKROADさんが証明しているし、まだほかにもやり方があるはずだ。
 これが実現すれば、本自体での利益が少なくても「生きた本屋」を続けることができる、という証明になる。本屋が本だけで食っていけないのは、認めざるを得ない事実だと認識しよう。そう認識した上で、やはり「本を売って成り立つ本屋を続ける」にはどうすればいいのか。あくまでも本が中心にある本屋。店を続けるために本を犠牲にすることのない本屋。本を生かす本屋。
 
 先述したように、僕は運に恵まれている。多くの出版業界人や本好きの皆様に応援していただいている上に、祖父が畑を持っていたためにこのような挑戦と実験のチャンスを手にした。いや、与えられた。
 ならばこの幸運や受けた恩は、本を愛する人たちに、そして将来の「本屋」に、還元していきたい。「生きている本屋」を残すことで、本を愛する人たちの期待に応えよう。「生きている本屋」を生み出し、かつ残していくためのスキルやノウハウを見つけることで、将来の「本屋」のための礎になろう。
 
 千葉の幕張に「本屋 Lighthouse」を文字通り作ります。次回からはその開業準備の風景もともにお送りすることにしますが、本屋になる前に、まずはTOKIO六人目のメンバーになろうと思います。

【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第16回

伽鹿舎の終わりってどんなだろう
 
 
 

 一冊目の単著『幸福はどこにある』は、文字通り幸福なスタートを切った。
 映画原作であること、発売がクリスマスシーズンに間に合ったこと。映画主演俳優サイモン・ペッグ氏の人気がうなぎのぼりであったこと。
 まさかの「九州限定」でフランス語で書かれて翻訳された小説が売れるとは恐らく誰も思っていなかっただろうし、実際に随分と色んな人に止められた。
 「業界」では「ガイブン」は3千部だって売れたら褒められる体たらくだという。それを九州限定で2千部売ろうとしたのだからそういわれても当然ではあった。
 本当に売れないのだろうか。値段が高いからでは? 翻訳文へのイメージが大昔のままの人が多いのでは? 「本」自体に「邪魔になる」「インテリアに合わない」という理由があるのでは? などと色んな想像をした。舎内で散々語り合って、値段を千円にし、手軽な文庫サイズに近いものにし、見た目の価値を高める努力もし、そうした結果が、それなりに好調な販売のスタートに繋がったのだ、とは思う。
 ただ、それは伽鹿舎としては、という意味で、通常の大手出版社なら、一週間で絶望しただろう程度には、地味な滑り出しだった。
 「片隅[tcy]01[/tcy]」を出版後、ひとに勧められてお目にかかり、伽鹿の本を置いてくださることになった熊本の古書肆「天野屋書店」(上通並木坂) さんは、この本を出す事になったと納品の相談に行くと「そもそもまたどうしてこんなもの熊本の出版社が出せることになったの?」と目を丸くした。
 経緯を語るのに夕食と移動後のバー二軒を費やした頃、天野屋さん(『本当は柏原さん、という立派な本名があるのだけど』(翻訳家・高橋啓さん談)) は「ぼくはその話が面白いと思う。出る本よりずっと面白い!」と手を叩いて大喜びしていた(勿論、酔っ払いである)。
 まったくもって笑っている場合ではない。本だって面白いんですってば! と刷り見本を押し付けていたら、天野屋さんは言った。
「あのね、ぼくなら、その話聞いたら面白すぎて本も買うよ」
 目が点になった。そんな事があるのか。人生の大先輩、しかも老舗の古書肆のご主人の言だ。思わず真顔になったら、続いたのは「だから、出版記念トークをやりましょう」という言葉だった。
 そこでどんなやりとりをしたのか、詳細には覚えていない。とにかく「いや、いや良いですけど、一体どこでやるんですかお金なんてありませんよ伽鹿舎には!」と言ったのは確かだった。後日、舎のメンバーに伝えたときにも全員が「どうやって? お金なんてないよ!」と言った。
 本当になかった。なにしろ有志で始めたうえに行き当たりばったりに出版に行き着いてしまったものだから、目の前にあるものをどうにかすることに精一杯で準備もへったくれもない。
「そもそもですね、可能なんだったら映画の再上映をやりたいくらいなんですよ! 映画原作なんだから!」
「そうねぇ、熊本ではその映画、どこがやったつね(やったの?)」
「電気館さんです」
「ふぅーん」
 電気館は、熊本市街地のこれまた老舗映画館だ。天野屋さんは思案顔になった。
「そりゃ僕が紹介してあげることは出来るけど、でもねえ、一回上映終わってるのはむずかしかろうねぇ」
「ですよね……」
 数日後、天野屋さんは連絡をくださった。
「あのね、トークの場所、決めといたから」
 !?!?????
 本当に決まっていた。満由美さんという素敵な元キャビンアテンダントさんがやっている喫茶だ。慌てて準備に奔走することになった。翻訳者の高橋啓先生にもあいさつ文を寄せてもいただいた。誰も来なかったらどうしようと冷や汗ばかりが流れたが、こうなったら運を天に任せるより他にない。ないというより、そもそも今まで全部それでやってきたのだから他の方法がわからない。
 トーク会場は満席だった。装画の田中千智さんも駆けつけて一緒に話をしてくださった。なごやかでとてもいい会だった。「幸福はどこにある」は売れた。
 ありがたすぎて気が遠くなった。そこで終わらないのが伽鹿舎だ。調子に乗って、やっぱり映画の再上映やりたいですと口走った。天野屋さんは、なんと「いいですよ紹介しましょう」と笑ってくれた。
 日を決めて、電気館に一緒に出向いてくださることになった。至れり尽くせり過ぎる。ついでに言うと、なにもかもポンコツな伽鹿舎と違ってトーク会場のファンタイムの満由美さんは完璧超人で、足らないものは全部「だと思った」と満由美さんによってカウンターの下からちゃんと取り出されたりした。至れり尽くせり過ぎる。上通すごい(並木坂かもしれない)。
 そんな後日、応接室で向かい合った電気館の窪寺さんは難しい顔をした。
「うちもね、三ヵ月後までイベント埋まってるし上映も決まってるし」
 当たり前である。
「ですよね、やるなら三月の連休がいいなあと思っていたのですが」
 お前、はなし聞いてる? といわれそうな事を口走る加地に天野屋さんは絶望的な顔をした。隣で絶句している。
「うーん、連休ねえ」
 窪寺さんは良い人だった。スケジュール帳を開いてくださった。
「ちょうどね、映画イベントやることになってるから、そのスケジュールがね……かぶらないなら良いんだけど」
「そうですか。もしかぶらなかったら出来る可能性ありますか? もし出来るなら、翻訳者の高橋啓先生をお招きしてトークイベントもやりたいんです」
 はっきり言って、熊本で翻訳者のトークイベントなんてほぼない。
「『幸福はどこにある』ですよね、あれは確かに良い映画だったよね」
 言って、窪寺さんは端整な顔をほころばせた。映画の好きな人なのだ。
「配給どこだったかなあ」
 即答できた。何しろアホみたいにお世話になったばかりである。窪寺さんは破顔一笑した。
「そっか、あそこでしたっけ。うち、仲良いんですよ」
「そうなんですか! 実は本にも、映画に出てきた絵を使わせてくださったり、本当に良くしていただいたんです! あ、これその本です、順番が後先ですみません! 良かったら是非どうぞ」
 一時間後、電気館を出ると天野屋さんが首を捻って言った。
「……話し始めたときに、これは駄目だ一つも見込みがないと思ったはずなんだけど」
「ですか」
「なんで今、三月にやる前提になって出てきたのかちっともわからん!」
 そうなのだった。窪寺さんは、予定しているイベントがかぶらなければ、という条件付で再上映を約束してくれたのだ。
 結果的に、これは実現した。予定のイベントは一週間早い週に行われることになったから、再上映は可能ですと連絡が来たのだ。時を同じくして、日田からは映画館の日田シネマテーク・リベルテさんから「上映をやりたいので本を扱いたいしイベントもやりたい!」と連絡が飛び込んだ。福岡ブックスキューブリックの大井さんには「トークイベント、いいよ、やろっか」と言っていただいた。まさかの3DAYSの実現である。
 高橋先生は喜んでくださった。初めての九州だと、還暦過ぎて、こんなに楽しいことがあっていいのかとまで言ってくださった。
 おまけにこの本には更におまけがついた。
 発売して一年が経つ頃、韓国の人気アイドルグループ東方神起のファンの方が「チャンミンが空港で買ったと話題になってた本、今なら日本語版買える」とTwitterで発言してくださり、火がついたように売れ出したのである。瞬く間に在庫が減り、止まらない勢いに年末だというのに急遽増刷を決めた。初の重版である。
 
 そんなうまい話があるもんか、と読んだ方は思っておられるかもしれない。
 だが、これは全部事実で、何も誇張さえしていない。
 勿論、同時並行していたWEB片隅は手が廻らなくなって酷い有様になった。執筆者にご迷惑もお掛けした。反省ばかりの顛末で、今でも申し訳なさで胃が痛くなったりもする。あまりにも、何もかもが手探りだった。それでも、伽鹿の名前は少しずつ、知られていった。泣くほどありがたい話だった。
 
 それで、考えたことがある。
 伽鹿舎は、どこで終わるんだろうと。
 いつだって綱渡りで、目の前にある偶然の幸運を無理矢理捕まえてこれまでをやってきた。そんな事がいつまでも続くわけはないし、続けられるわけもない。長期戦で売っているから、掛けた費用の回収には通常の会社が掛けているだろう期間の数倍を要している。出し続ければ、ある日、突然終わりがくる。だがそれはあまりにも困る。周囲にだって迷惑すぎる。
 だったら、どこまでなら続くだろうか。次の本、それともその次。
 凄い出版社だ、と言ってもらった。素晴らしい取り組みだ、ともたくさんお声掛けいただいた。ファンです、と言ってくれる人たちがいてくれて、伽鹿で書きたいといってくれる著者さんたちがいる。重版したいという目標も、伽鹿で本を出したいと願ってくれる著者さんが現れることという目標も、ブックイベントにお招きいただくという目標もクリアした。
 伽鹿舎が当初たてた目論見は、どうやらうまくいったらしかった。
 九州でしか売らなくても、それがガイブンでも、物凄く知名度がある著者だったりしなくても、ちゃんと買って貰えるんだ、ということはわかった。
 もし、これがうまく行くのなら、全国各地で同じようなことをやれば、きっと面白い事になるだろう。
 
 元より、有志による実験のような出版社だった。
 九州限定で、中央が出来ないことをやってみよう、それで辺境の、片隅の九州に、普段は届かない本を届けてみよう、本屋さんに、きっとそれで恩返しが出来るし、九州の未来のためにもなる、というのがその実験の目的だった。
 実験の結果は、概ね出た。
 基本的には、やっていける、という手ごたえが十分にあった。やっていける。新しい方法を、伽鹿は生み出していけるだろう。
 同時に、本屋さんにはあまりにも制約が多過ぎて、どんなに伽鹿が共闘したくても、そうは出来ない場合が多々あることも、わかった。
 有志がやっている週末非営利出版社だから、採算を度外視したけれど、それでは行き詰る(そりゃそうだ) のも身に染みてわかった。
 伽鹿舎は、やっていける。ただ、このまま同じ方法では、無理なのだった。
 まだやりたい事がいくつもある。
 書店を始めたい誰もが躓く「取次との契約」や「きちんとした実店舗」というハードルを下げる為に、小さな会員制の卸売店舗を作りたい。
 東京の神田まで行かなくても、九州の真ん中に位置する熊本で、誰もが足を運びやすい繁華街に、賛同してくれる版元の本が見本で置いてあって、会員書店さんなら手にとって自店に帰ってから発注できる、そうでない個人会員なら、その場でほしい本を数冊だけ仕入れて行くことが出来る、そんな場を作りたいのだ。
 そうすれば、誰もが小さく、それこそヒトハコで新刊書店を開くことが出来る。どこかの窓辺で、ベンチで、軒先で、喫茶店で、美容室で、好きな場所で。
 そうやって小さな書店が無数に出来れば、本に親しむ人も、それぞれに違うお勧めを求めて旅をする人も増えるだろう。それってきっと素敵な未来だ。
 書店のない町や村が消えるかもしれない。書店をやりたいひとたちが笑顔になれるかもしれない。
「九州を本の島に」
 伽鹿舎が阿呆の一つ覚えのように唱え続けたこの呪文を、みんなで共有出来るようにしたい。同じロゴをみんなで使って、みんなでそんな未来を目指すのだ。
 
 伽鹿を応援してくれる人は随分と増えた。
 それでも、爆発的に増やす方法はない、と分かっていた。誰もが口をそろえて「顔が見えないから無理だと思います」とそう言った。前回も書いたとおりだ。ひとの顔が見えなくても面白がってくれる人など稀少なのだ。実感として、それは事実だった。
 伽鹿のようなプロジェクトは、影響力のある誰かがシンボルとしてひっぱらないと広まらない。広まらないと動かない。動かなければ、行き詰る。最低限の資金はどこかで調達しなければならない。伽鹿のように長期戦で売るモデルを構築するには、数ヶ月で売り上げて売り抜けるような方法論は適用できないから、どうしても不足している期間の資金が必要になる。今のままでは、伽鹿にそれは用意できない。スポンサーがいるわけでもなく、超ヒット作を抱えたりもしていない(そもそも失くしたくない良作を出し、新人を送り出したいのだ、というポリシー自体がそんな風には出来ていない) 伽鹿には、このまま続けていくだけの体力はもうない。
 だから。
 伽鹿はもっと、違う方法を模索しなければならない。今の伽鹿舎は、そうやって、第一期を終わらせるのだ、未来に向かって。
 まずはこれまで、この二年間を熱烈に応援してくださったすべてのひとに、最大限の感謝を捧げたい。(つづく)

【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第15回

昨日、そして明日[QUINOAZ]
 
 
 

 伽鹿舎QUINOAZは、伽鹿舎が最初に作った小説のためのレーベルだ。
 昨日から明日へ、を掲げたこのレーベルは、今では平凡社ライブラリーにしか残っていなかったライブラリー版という版型を採用している。文庫より少しだけ大きい。
 現時点ではフランス文学ばかり刊行しているので(と言ってもまだ3冊なのだけど) 仏文専門と思われることが多いのだが、これはたまたまそうなっているだけで、8月刊行と言いつつずれにずれて[tcy]10[/tcy]月上旬に完成することになった『戦争の法』(佐藤亜紀著) を含め、今後の刊行予定には特に何も制限は掛かっていない。
 
 ここまでで「こ、今後の刊行予定[tcy]!?[/tcy]」と椅子から立ち上がった人は落ち着いてほしい。予定は未定であって決定ではないのである。
 ただ、目論見としては佐藤亜紀さんの著作を順次刊行予定だし(版権が切れている著作を順次復刊するし、まだ文庫になっていなかったものもそれは同様だ)、クローデル「リンさんの小さな子」(高橋啓訳) も復刊予定だし、絲山秋子さんの未文庫化作品だとか、本邦初紹介になるジュリア・デックの小説(二人称によるサスペンスでこれが面白いんですよ) だとか、脚本家で作家の松下隆一さん(「二人ノ世界」(河出書房新社)おすすめです) の書き下ろし小説だとか、勿論(?) パスカル・キニャール「愛された小さな庭で(仮題)」(高橋啓訳) だって予定には入っている。
 
 このレーベルを作るきっかけになったのは、繰り返しになるが坂口恭平さんが「この絵を使って本を作れよ」と言ってくださったレーモン・ルーセルの「アフリカの印象」で、そう、ただしこれは新訳を目論んだのですぐさま刊行など出来るわけがなかったのだった。
 ちなみに「抄訳アフリカの印象」は全国解禁されるや大変好評をいただいていて、古典かつ難解の代表作のように思われているルーセルを、こうして皆さんに面白がって読んでいただけた、というだけで企画の意図は十全に昇華された。とても嬉しい。
 さて。
 では「抄訳アフリカの印象」が刊行されるまで何をしよう、というのが問題に、なるはずだった。はずだったのだ。「片隅」の刊行は決めた。何しろとにかく本というものを出してみないことには勝手がわからぬ。逆に言えば、それしか決まっていなかった。
 ところが、である。
 そこに飛び込んできたのが「幸福はどこにある」の話だったのだ。
 
 翻訳家の高橋啓さんとは、パスカル・キニャールのシンポジウムで初めてお目に掛かった。
 当舎でも書いてくださっている磯崎愛さんが「キニャールが来日するんです!」と興奮して連絡をくださり、一も二もなく参加を決めたそのシンポジウムで、休憩時間にご挨拶させていただいたのが最初だ。
 ちなみにこのシンポジウムでは岡和田晃さんにも、佐藤亜紀さんにも面識が叶って、キニャール氏には三度も握手までしていただいて、まさに夢のような時間を過ごした。
 実はそれきりだったものを、不躾にも「今度出版社をやろうとしています」と連絡してみた、といういきさつはこの連載でも書いたことがあるのだが。
 高橋さんは当初「意味が分からない」と首をひねりまくった。ひねりまくった結果、何を言っているのかさっぱりわからないし、年寄りはこういうメールでより対面で話したいんですよと言ってくださって、東京でお目に掛かることになった。
 で、いったい何をしようとしているのか、と問われて、九州を本の島にしたいのだ、と語るという、ほとんどもはやどうかしている会見を経て、「そう。僕はもう新しい編集者と付き合う気力の持ち合わせがないからあれだけど、いつか何かでご一緒出来ればいいですね。まあ頑張って」と別れた、のだったのに、その直後、高橋さんは丁寧なメールを送ってきてくださったのだった。
「現在公開中の『しあわせはどこにある』という映画、あの原作はNHK出版から出ていた僕の訳です。現在絶版なのだけれど、NHK出版では復刊できないらしい。担当だったIさんが、どこか復刊したいという志のある出版社はないものだろうかと嘆いている。伽鹿舎の話を聞いたばかりでこれだ。どうですか、興味はありますか?」
 興味があるどころではなかった。
 しあわせはどこにある、という映画は、フランス語原作の本をそっくりイギリスに舞台を移してサイモン・ペッグ主演で撮られた作品だ。サイモン・ペッグのファンだったし、良作なのは明白だったので、観る気満々でいるところだった。ただ、いかんせん九州は熊本にいる時点で、上映は秋までお預けを食らっていたわけだが。
 ありますあります出せるなら是非やりたいですと阿呆丸出しのメールを大急ぎで送り返し、高橋さんは「ではやってみてください」とNHK出版から出た単行本を送ってきてくださった。NHK出版のIさんをご紹介もくださった。
 大変だ!
 すでに上映は始まっている。季節は間もなく夏である。秋に片隅を出すと決めていた。だが、せっかくの映画原作なのである。作品の為にもファンの為にもなんとか映画の余韻が消えないうちに出してあげたい。
 ともかくまずは版権をとらないと始まらない。
 著作権取得のエージェントであるフランス著作権事務所をNHKのIさんにご紹介いただいて連絡をとった。所長さんは恐ろしい速さで段取りをつけてくださった。最初にコンタクトしてから数日、もう伽鹿舎はこの本の版権を取得できると約束されていた。
 著者はとても喜んでくださったと伝言があった。なんだかこっちまで嬉しくなってしまう。嬉しくなりついでに、どうせならと「可能なら一文寄せていただけないか」と調子に乗ってみた。なんと快諾された。この前書きには原稿料なんていらないよ! とも言ってくださった。
 素晴らしいスピードである。順調にもほどがある。だが同時にそれでも恐ろしく時間がなかった。とりあえず映画の配給会社に連絡した。原作を復刊させようと思う、ついては協力いただけないかとまたもや不躾にもほどがあるこのメールを、なんと単に配給会社をWEBで検索して出て来た担当さんかどうかもわからない方に送りつけたわけである。
 目論見があった。
 映画は評判がよかった。まず間違いなくソフト化される。映画の上映に間に合わないとしても、ソフトの販売には間に合うのではないか?
 配給会社さんは喜んでくださった。映画に合わせてなんとか原作を復刊して欲しいとNHK出版に嘆願したのに叶わなかったのだと、復刊されるならなんでも協力は惜しまないと言ってくださった。
 そうして。
 ソフト化の話が既にあることを教えてくださったのみならず、その担当者との渡りをつけてくださったのだ。
 こうなったら何でも言ってみよう、と考えて、劇中に出てくる主人公が描くらくがきも出来たら本に使いたいとねだってみた。配給会社さんは製作会社さんに連絡をとってくださった。許可はあっさり出た。ブラボー!
 ソフト化はKADOKAWAさんだった。担当さんは「いいですね! タイアップしましょう」と言ってくださった。奇跡である。初めて刊行するレーベルの一冊目がメディアミックス。出来過ぎだ。
 こうして、ソフトの発売日がクリスマスだと告げられた我々は、刊行日を[tcy]12[/tcy]月[tcy]23[/tcy]日と定めることになった。
 ソフトには書籍「幸福はどこにある」の告知ペーパーを封入してくださることになった。書籍にはもちろん「しあわせはどこにある」の発売告知が入る。帯にサイモン・ペッグの写真を使わせていただく許可も出た。
 大急ぎで画家の田中千智さんにも連絡をした。今度こそ(!) そもそもお声掛けしたきっかけの絵だ。NHK出版版の本をお渡しして楽しみにしていますとお願いした。御存知の通り、もちろん千智さんは素晴らしい絵を仕上げてくださった。
 QUINOAZのカバー原型デザインは、伽鹿舎のロゴと同じくテツシンデザイン事務所さんによるものだ。当初の提案では更に小さな枠だった絵の部分を、どうしても絵を大きくしたくて広げた。正方形を変えなかったから絵が切れる。あまりにもったいなくて、そのまま口絵に収録しよう、と考えた。
 今度は印刷を担当してくださる藤原印刷さんに連絡である。片隅の装丁でも随分と無茶苦茶を言ったが、QUINOAZは輪を掛けて無茶苦茶になった。そもそもカバーを折りたいという時点で「は?」と言われた。当たり前だ。
 いまどきの印刷機は優秀だから、普通のカバーなら本にカバーを掛けることまで全自動である。だが、一部を折り返してあるとなるとそれが難しい。
 折り返しを手でするのか巻くのを手でするのかに始まり、随分と藤原印刷さんにはご苦労をお掛けしたのに、若干透け感のある安くて雰囲気のある紙はありませんかだの、一色刷りは特色で頼むだの、端から端まで言いたい放題に要求した。勿論のこと藤原印刷さんはすべて叶えてくださった。結果的にカバーは全部手巻きである。
 そのうえさらに、口絵を入れたいとか言い出し、口絵の紙はおススメを頼む、とかなんとかブン投げるに至って、おそらく藤原印刷さんは相当にイライラしたに違いないのだが、なにしろともかく彼らはプロフェッショナルなのだった。
 何もかもノンストップである。同時並行で「片隅」の編集をやっていた。
 NHK出版からの刊行当時の本文データもいただけた。
 あとは組むだけだ。
 だったのだが。
 この経緯は勿論のこと、高橋さんには逐一報告していた。著者から一文いただけるのだが、当然フランス語なので、申し訳ないが訳して欲しいとお願いするに至って高橋さんは唖然とした。唖然としつつ、快諾くださった。死に物狂いなのが伝わったのかもしれない。高橋さんは当初「NHKで随分しっかりみてくれた作品だから、大丈夫、著者校はいらない」と言っておられたのに、「やはり校正をしましょう」と言ってくださった。
 ちょうど、フランスから話題作「エディに別れを告げて」の著者エドゥアール・ルイ氏が来日することになっていた。翻訳を手がけたのは高橋さんだ。北海道は帯広在住の高橋さんは、エドゥアールのイベントの為に「東京に出るから、打ち合わせとゲラの受け渡しを」、と言ってくださった。
 飛んで行った。「エディに別れを告げて」はすさまじい本だ。壮絶な著者の体験を下敷きにした、現代フランスの暗部を抉り出すような、同時にそれは「村社会」の持つ危うさやマイノリティの息苦しさを伝えるに余りある傑作で、当然のことながら日本でもそのまま通用する、どころか問題を浮き彫りにして突き付けてくる問題作でもあった。その著者には、当然お目に掛かりたかった。もちろんフランス語なんてボンジュールとメルシー以外からっきしである。それでも、本人に会える、という機会など逃すものではない。
 片隅と同時並行であったのも手伝って、高橋さんとの待ち合わせの1分前までまだ校正をやっていた。木間と手分けして見ていたものを、お互いにチェックし合い、ゲラに書き込むことにしていたのだが、想像以上に時間がなかった。やむなく、一人がすでに赤字で書き込みをしていたものに、もうひとりの赤字を書き足すことにして時間の短縮を図った。
 やってきた高橋さんは目を細めてゲラを眺め、「随分みたんだね」と笑った。
 後日「ゲラはね、赤は著者がいれるんですよ、鉛筆にしなさいね」とご指摘をいただいた。まったくである。幾ら時間がなかったとはいえ本当に申し訳ない。
 戻ってきたゲラは、大半が「OK」だった。やや文意がとりにくい箇所や、時代を経て使われなくなった言葉などにささやかな提案と共に書き込んでおいたものには検討理由と共に新しい訳文が添えられていた。素晴らしかった。
 これらの作業は楽しかった。何も苦にならない。レイアウトを考え、足らないイラストを描き足し、時と場合によっては徹夜作業に陥りつつも、本は完成に向かった。
 
 この年、伽鹿舎は2冊の本を出したわけだ。片隅、そしてQUINOAZ一冊目。
 どちらも当然のようにちゃんと店頭に並んだ。並んだが、それだけで売れるわけは、もちろんなかった。ブックスキューブリックの大井さんに、どうしても読んで欲しくて「幸福はどこにある」一冊を進呈した。大井さんは「これ、僕の好きな小説だ」と言ってくださった。あちこちでお勧めくださった。福岡では、少しずつ、売れ始めた。
 せっかくなら、とよくばりに更に考えた。
 もう上映の終わってしまった「しあわせはどこにある」を、なんとか再上映できないか?
 
 この本が更に重版まで辿り着く紆余曲折の、これが始まりなのだった。(つづく)

【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第14回

片隅と本屋の未来
 
 
 

 昨今、とてもとても話題になった文藝誌に「アルテリ」と「たべるのがおそい」がある。これはどちらも九州から発信された。
 特にというかとりたててというか、話題にならなかった当舎の「片隅」は、その九州発の文藝誌の嚆矢だった。だったというより、偶然そうなった。むしろ、そうでなかったら、とっくの昔に埋没して吹っ飛ばされている。一番乗り、大事。
 そんなわけで、片隅[tcy]01[/tcy]を刊行した際、いくつかの新聞が好意的に取り上げて記事を書いてくれた。
 それは「九州限定」が珍奇だったせいだろうし、このご時世に文藝誌を敢えて刊行する、ということが驚きをもって受け止められたせいでもあるに違いない。
 ついでに九州のこの文藝誌3誌が出揃うと、3誌をまとめてとりあげてくれる記事も出た。それはそうだろう。ここでも、忘れ去られても不思議でない「片隅」がちゃんと取り上げて貰えたのは一番乗りだったからだ。そうでなければ箸にも棒にも掛かっていない。
 そんなに自虐しなくても、と言うなかれ。これは厳然たる事実だ。仕方がない。
 別に出来が悪いとは微塵も思っていない。
 文藝に親しみ続け、読み巧者となった人たちに「物足りない」かもしれないのはわからないではないが、「片隅」は前回も書いたとおり「本を読むことに親しみがさほどない」九州の人たちに手にしてもらうために編んだのだから、そこに重点は置いていない。平明でとっつきやすく、気軽に読み飛ばせて、つまりはスマホを握ってなんでもない記事を読むのと同じように読んで欲しかったのだから、当然の帰結なのである。それをもって「出来が悪い」とは言わないだろう。単にターゲットが全く違うだけである。
 だが「片隅」を読めばどんな人でも必ず何かは残る、そういうものになったし、した、というつもりではいる。そうなるような作品を選んだしお願いした。これを足掛かりにほかの作品に目が向けば良いし、そうでなくても「本だって面白いんジャン」と思って貰いたかった。
 だから、「文学」や「ブンガク」を標榜する場面でいささか低く見られても全く構わない。それを低く見ること自体に「それは果たして文学的な態度なのか?」と問いたい気持ちはともかく、現実としてそうなることは想定の範囲内ではあった。よしとはしないが、そもそも既に形成されている「空気」を覆すことはとても難しい。
 さて、そんな中で学んだことがあった。
 文学のなんたるか、などではない。ごく当たり前に小さなことだ。それをマーケティングといえば、掠ってくらいはいる。そういうたぐいの事だ。
 何を学んだのか。
 単純なことだ。新聞記事にせよなんにせよ、「ひと」が見えないと、あまり取り合ってもらえない、というただそれだけのことである。
 当舎は全員が本業をもってボランティアで運営されている。そのために、誰も顔出しをしない、と決めていた。
 従って、ほかの2誌が、本を持ってにこやかに佇む誰かの素敵な写真になったのに対して、「片隅」は書影のみの掲載になった。
 実は、こうなると当舎の本など印象に残らないのである。ああ、なんか載ってたかも、それでオシマイだ。
 
 物が売れない時代になった、と言われる。
 それも当然で、これだけ趣味も娯楽も多様化し、ライフスタイルが千人千様になった今、誰もが手にするもの、なんていうのは生活必需品かつ消耗品に限られるのであって、服でも家具でもインテリアでも、およそ「個性」が幅を利かせるものといったらあらゆる方向に細分化されて当然なのである。
 ましてや本。
 そう、本なのだった。
 本屋さんが苦戦する、というのは当たり前の事で、その中で必死に頑張っている本屋さんを応援したいから伽鹿舎はこうして本を作っている。だが、その本を選ぶのは読者なのだから、読者に求められない本は本屋さんは並べる意味を感じない。
 つまり伽鹿舎が本屋さんを応援できるかどうかは、伽鹿舎のつくる本が読者に必要とされるかどうかに掛かっている。
 今のところ。
 それは半分成功して、半分失敗した。
 イベントやその他のいろんな場面で、直接お目に掛かり、店主や売り場責任者の方に「片隅」や「QUINOAZ」の話を出来た場合は、とても熱心に売っていただけたし、実際に売れた。
 そもそも伽鹿舎のやっていることは型破りなのであって、その型破りな様を知ると、本も買ってみようかと思っていただきやすいようだ。
 逆に、無数のチェーン店さんには、それが届かない。「片隅」がどんな本なのか、「QUINOAZ」が何故九州限定なのか、分かって貰えている率はとても低い。
 「ひと」が見えないと記事は忘れられる。「何故」が見えないと本は手に取って貰えない。
 共通しているのは、そこに「物語」が見えるかどうかだ。
 物が売れない時代、物を買う一つの基準として「物語」がとても強い力を持っている。
 同じような製品なら、より「物語性」が高いものを選ぶ傾向がある。それはそうだろう。見知らぬ誰かをいきなり応援はしにくいが、それが友達の友達なら応援したくなるし、見知らぬ誰かであっても、それまでどんなに頑張って来たかを知れば応援したくなる。
 伽鹿舎には、たぶん物語が詰まっている。
 懇意にしていただいている古書肆・天野屋書店の店主は、カウンターに伽鹿舎の本をずらっと並べてくださった。お客さんは嫌でも会計の時にカウンターに来る。並んだ伽鹿の本に目をとめて「これは新刊ですか?」と尋ねようものなら(!) 店主は嬉々としてこれらが刊行されたいきさつを語り出す。
 買わない人は、あまりいない。面白がって、次も買いに来てくださる方も、多い。
 店主は全部の本を読んだりは実はしていないらしい。それでも、面白い出版社だと、買ってくれる人は必ずいるのだった。
 
 少し前に、絵本作家さんの発言が大炎上しているのを目撃した。
 これだけ千差万別ありとあらゆるモノが溢れる中で、「自分の本」を選んでもらおうと思って、その結果が「誰かを蔑ろにする」ものになってしまっても、それでもいいのだというのなら、それはそれで一つの選択だ。四の五の言っている暇はない。今日も本は更に売れなくなっているし、明日もまた一つ書店が閉店する。
 だから、結果的にそれで彼らの本がちゃんと売れるのだったら、それはそれで良いんだろう。ただ、少なくとも伽鹿は同じことはやらない。
 伽鹿舎は「本屋さんを応援したい」と言い張って本を作ってきた。でもそれで伽鹿の本を売ってくれる書店さんが増える、なんてことも思っていない。書店も多様化していくだろう。伽鹿の本を面白い売りたい置きたいと言ってくれる本屋さんがいてくれるから、一緒にやっていきたいと願っているのだ。
 伽鹿舎は、半分うまくいったし、半分失敗した。
 伽鹿舎の持っている最大の武器はたぶん「物語性」だ。
 それをどうやったら九州中の本屋さんに伝えられるか、次の勝負はきっとそこに掛かっている。伽鹿舎の本が本屋さんを応援できるかどうかも。
 
 本屋さんは、本を選んでいる人を捕まえてこれがおススメですよと声高に言ってきたりはしない。
 だが、天野屋さんの例を見るまでもなく、書店員さんのおススメPOPの有無や、置く場所で本の売れ行きは容易に左右される。その静か過ぎる情熱にいつだって新しい世界の扉を開いてもらっている。
 ならば伽鹿舎は、いい本だと、面白い本だと信じるものを作っていこう。
 伽鹿舎がこれからも「物語」を紡ぐことが出来れば、きっとPOPにし易いだろう。個人書店なら、おすすめの本と訊かれて店主が語りやすかったりも、きっとするだろう。
 物語が積み重なったその先に、九州を本の島にする方法も必ずある筈だ。本屋の未来が暗いなんてこと、一度も思ったことがないから、今日も明日も明後日も、本屋さんたちに追いつくために走っていく。

【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第13回

アフリカと九州
 
 
 

 当舎きっての『奇書』である『抄訳アフリカの印象』が、「初版相当部数の完売による全国解禁!」を迎えた。
 実にめでたい。ので、今回はそれに関連する話を書いてみようと思う。もはや時系列など時空の彼方にすっ飛んでいるが気にしてはいけない。
 まだこの本を作り上げる話に至っていない悠長な連載のせいで話がややこしいのだが、そもそも当初、紙の本など作れるようになるのは数年後だ、と思っていた伽鹿舎が、いきなり出版という沼にダイブしたのはこの本のせいだった。せいだったというより、おかげだった。
 そろそろ読んでいる人も忘れかけている気がしなくもないが、伽鹿を立ち上げる話をした相手が坂口恭平さんだったお蔭で、恭平さんによる『アフリカの印象』のドローイングを使って本を出せばいい、という話に発展し、じゃあ、というのでまずはそもそも本という物を作ってみようではないかと作ってみたのが『片隅[tcy]01[/tcy]』だったわけで、その後の紆余曲折を経て、QUINOAZの一冊目である『幸福はどこにある』と片隅の2冊目に続く、通算4冊目の本として、『抄訳アフリカの印象』は世に送り出されたのだった。
 
 この本は面白がられるだろう、と実は思っていた。
 絵をメインにしてその場面のみの翻訳文を添え、しかもそれは新訳で、おまけに原文まで併記されている、なんて本はどう考えてもその辺にぽいぽい存在しているとは思えなかったし、絵は坂口恭平さんなわけだし、おまけに解説はいとうせいこうさんなのだった。話題にも事欠かないだろ、とも思っていた。
 とはいえ、もとが難解で知られるルーセルである。
 通常のQUINOAZなら売れて増刷、で幾らでも対応できるが、この本についてはページ数も多く、気安く増刷するわけにはいかない。初版と同じ部数の二刷、三刷、というのは、間違いなく在庫に苦しむことになるのが目に見えている。
 それで、通常の倍より控え目、くらいの冊数を一度に刷る事にした。当たり前だが、版を作るなどの経費は冊数にかかわらず一定だから、一度にたくさん刷った方が一冊当たりは安くなる。どうしても千円で売りたかったこともあって、この方法に踏み切った。
 今回が「重版出来による全国解禁!」ではなく「初版相当部数の完売による全国解禁!」なのはそれが理由なのだった。
 実際に、この本が発売されると、やはり面白がられた。
 名だたる仏文学者のみなさんに勿体無いお褒めの言葉と、同時にちょっぴりの呆れとをいただいて、要は映画「バトルシップ」でナガタ一佐が漏らすところの「あいつアホだな!?」という愛ある応援をいただいたわけである。
 が。
 いかんせん、伽鹿舎は営業をしない。しないというか出来ないのだが、はたから見たら単にやっていないだけなので、やはり「しない」としか言えない感じで、していない。
 つまり、店頭にこの本が並ぶ書店さんに、どの程度この本の魅力を伝えられたか、と言ったらとてつもなく心もとなかったし怪しかった。おまけに九州限定だから、当然のように個人経営の小さな書店さんや、チェーンの書店さんだ。アフリカ、ルーセル、くらいでもうブン投げられても文句は言えない。
 案の定、取次さん分はさっぱり動かなかった。苦戦とかいう問題以前のレベルである。
 それでもコツコツと売り続け、面白がる人の口コミで広めて貰った結果、の今回の解禁なのだ。伽鹿舎内は必要以上に盛り上がったが、単に自業自得なので喜ぶのは少々おかしいのかもしれない。
 だが、正直、この日が来なかったらどうしようと若干不安を覚える程度に動かなかったのである。ちゃんと全国解禁まで来ただけで褒めてほしいし、もはや1店舗でも注文が来たら万歳三唱、くらいの心持だった。
 おかげさまで、全国解禁と取次のHABさんが告知してくださった直後から順調に注文をいただけているようである。HABさんありがとう。そして全国の感性溢れる書店のみなさま本当にありがとうございます。この本を見て「なにこの気の狂った本」と褒めてるのかけなしているのか全く分からない呟きをくれたみなさまもありがとうございました。これからもありがとうございます(!)。
 
 たぶん。
 伽鹿舎が九州限定でなければこんなにこの本は苦労しなかっただろう。
 最初から全国展開であれば、坂口恭平の絵で新訳でいとうせいこうが解説を書いているというだけでちゃんと売れて行ったのは想像に難くない。
 実際、何故そうしないのだとありとあらゆる人に窘められたりやんわり怒られたり呆れ果てられたりした。
 ついでに言うと何故千円なんだ、ともありとあらゆる人に(以下略)。
 何故、と言われても。
 伽鹿舎は九州を本の島にしたいのである。
 くどいようだが、それが目的なのである。
 何故、九州なんだと言われたら九州が文藝の土壌に恵まれた豊かな島だからだし、そうであるにも関わらず、家庭における本の購入費の比率が全国でもワーストに入ってしまう環境になってしまっているからだ。
 九州は東京から見れば片隅だ。
 大手取次の人気本は九州までたださえ辿り着くのが遅く、辿り着いても数冊でしかなかったり、小さな本屋には並びもしなかったりする。
 そうやって本屋は減っていき、減って行けば本屋に行く経験をしない人々が増えて、ますます本屋は減るのだった。
 九州出身の作家は多い。住んだ文豪も多い。思想家だって輩出しているし、大きな問題も幾つも経験している。水俣病も、炭鉱も、そう、軍艦島だって九州にある。かと思えば世界一に匹敵する阿蘇のカルデラが広がっていたり、桜島が勇壮に聳えていたり、別府を始めあまたの温泉地が溢れかえっていたりもするし、長く日本の唯一の玄関口であった長崎もあれば、今でも東京に行くのと同じ時間でもうアジアに飛び出すことも出来たりする。日本国内の最後の内戦であった西南戦争を経験したのも九州で、その近代戦に耐えた中世の城こそが熊本城だ。
 古くから、無数の同人誌が編まれてきたのも九州の特徴の一つには違いなく、それらの同人誌が当たり前のように地元書店に並んでいたりもする。ついでに老舗の古書店だって現役で当たり前のように商いを続けているのもこの島ならではには違いない。特に熊本の繁華街にはそれが顕著だ。
 そんな豊かな土壌の上に、生きて未来をつくる人々に、当たり前のように安価に身近に本がある生活をしてほしい。それが伽鹿舎の目指している未来だ。
 本の為だけでなく、全国の人が楽しみに訪れるに十分な資産をこの島は有している。だから、九州限定だし、千円なのだった。旅人が買いに来るハードルとしては、妥当なはずだし、地元の、普段は本をあまり買うことのない人に買ってみようかと思わせるなら千円が限界だろうから。
 本は一冊ずつに世界を内包している。
 どんな本であっても、必ずそうだ。
 それらを手にすることは、知見を広げるし視野を広げる。行きたい場所は無限に増え、やってみたいことは幾らでも目に付く。それこそが、生きるための武器になる。
 この魅力的な島で、本という武器を手に、豊かな生き方を、楽な生き方をしてほしい。ここが駄目なら世界があることを、いつも意識していられるように、同じだけ、いつでも戻れるように、自分たちの足元はこんなにも豊かだと知るために。
 九州は、本の島になれる。
 だから。
 苦戦しようと何をしようと、伽鹿舎はこれからも九州限定だ。この島が本の島になる未来には、きっと列島全部が、とても豊かな世界になっている。
 九州からアフリカにだって、きっと繋がる。ルーセルのアフリカにも、きっと。

【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第12回

そうだ、密林に行こう。――伽鹿舎、密林を九州領にと目論む
 
 
 

 仮面ライダーアマゾンは平成も終わりそうな今に至るまでの歴代仮面ライダーの中でもやっぱりかなり特殊な方向に突飛な存在だと思うのだがどうだろう。
 
 いきなりなんだ、というかどうした、と思われたみなさん、ご安心を。
 今回は別に恰好良すぎる野性味あふれる攻撃がどうの、という話をしたいわけではない。
 当舎は出版社なのだから、密林と言えば当然のように泣く子も黙るAmazonという巨大マーケットの話、である。ではあるのだが、しかしそれだけでもない。じゃあなんだ。
 ともあれ、Amazonである。
 前回、ようやく「片隅[tcy]01[/tcy]」の発行直前まで回顧したというのに、例によって事件は現場で起きるのであり唐突に起きるのであって、またもや時計はぐるっと回って現在の話だ。いや、当時の話も交えるのだけれど。
 
 伽鹿舎は、九州限定の出版社だ。
 少なくとも、初版が完売し重版が掛かるまでは九州以外の書店には卸さない、というのが多分最大にして他に今のところ類を見ない特徴である。
 出版する、となったとき、もちろん、密林に思いは馳せた。何といっても今や一大マーケットどころかほかが駆逐される勢いでこの密林は増殖しているのであって、呑み込まれる書店は数知れず、脅威も感じるが同時に未来感もあっちゃったりする、まさに激動の過渡期の申し子なのである。
 おまけに、世の中というのは一度出来た流れがそう簡単に変わるものではない。密林が世界を席巻してしまった以上、もはや密林にない本はこの世に存在しないがごとき扱いを受ける。
 例えば、密林で検索して出ない本は「なにこれどうやって買うの?」と訊かれてしまうし(実際に訊かれた)、密林のランキングにない本は話題にして貰えないし(確かにリンクも貼れない)、密林にないばっかりにいくつかの本にまつわるインターネットサービスで見つけても貰えなかったりするし(読書メーターさんも、あまたの書評サイトも、まあたいていはそうだ)、当然アフェリエイトの発生しようがないからブロガーだって取り上げてくれたりもしない(アフェリエイトの為だけにブログを書くわけじゃないのは承知ですので念のため)。
 こうなると弱小駆け出し出版社としては密林で売らないとしても、登録くらいはしてほしい、というのがどうしたって正直な希望である。
 だが、そもそも「九州の書店を応援したい」が柱のひとつである当舎として、密林は九州じゃないし実店舗でもないのだから、出来ればガンガン利用して欲しくもない。そのために自舎で通販もしているのだし、書店さんにも出来るだけやってくださいとお願いまでしている。つまり、密林さんには本の存在は認知して欲しいが、バカスカ売って欲しくはないのだった。さてそういう無理難題はどうしたら通るのか。はっきり言って密林側からしたら「ふざけんのも大概にしろ」な言い分なのである。
 だが、密林の利点は「欲しい本がすばやく買える」ことだ。実店舗の書店さんの利点は「知らなかった本が目に付く」「知らなかった本を勧めてもらえる」「並べ方で興味を惹かれる範囲が広がる」なんてところにあるので、実は競合しないのではないか、と思うことも沢山あるのだ。いっそ逆に「密林で知ったので実店舗で買います!」と思ってもらえるように、こっそり(?) 伽鹿の主義主張を交えて商品を登録したら、新しい未来が見えるのでは?
 となると、密林で、伽鹿の望む文言で商品を登録し、かつ売れても伽鹿が赤字にならない方法を追求しなければならない。
 結論から言えば、当時の我々の判断は「諦める」にあっさり傾いた。
 まず伽鹿舎は大手取次に口座を持っていないから、出版社取引コードを持っていない。これが何かというと、取次と書店の間では書店も出版社も全部コード(書店の「番線」なんて言葉を聞いたことがある方もいらっしゃるはずだ) で処理されるので、通常は口座を開設したときに自動的に与えられるコードのことだ。密林は、このコードを持っている前提でしか話をしてくれない。
 仕方ないので問い合わせた。密林さん密林さん、出版社取引コードないんですけどご機嫌いかが。返事はとても速かった。じゃ無理なのでe託利用してね!
 ですよねー、と我々は頷きあった。e託とは、要するに密林に直接登録して、取次等を通さずに商品を出品する仕組みだ。当たり前だが、年会費も必要だし送料は出版社負担だし掛率は何が何でも書籍は6掛と決まっている。
 つらい。
 密林に出せば売れる可能性はある。伽鹿を知ってもらえる可能性も飛躍的に高まる。利点は沢山ある。あるが、日本の大多数である九州外の人々がそれを利用したとしたら、伽鹿舎は取次に65%で卸しても原価ぎりぎりなのに売れたら売れただけ赤字になるという最悪の事態を招く。それはちょっと流石に幾らなんでもない。
 商売をする気はないが慈善事業をしているわけでもないのである。お前、非営利って言ったじゃないか! とおっしゃる向きもあるかもしれないが、非営利であることと慈善事業であることは別の話だ。営利を追求しないだけで、恵んでやろうとか思っているわけじゃないのである。あくまで、書店さんと、読みたい読者さんと、九州という島と共にがんばりたいのであって、どこかにせっせと貢ぐつもりはないのだ。というか、貢ぐなら出版などせずにその分の現金を貢いだ方がよほど効率がいい(たぶん、なくなってほしくない書店さんに「使ってください!」と現金を差し上げればその書店が閉店する日を数日でも先延ばしには出来る) のだが、そういうことをしたいわけじゃないのである。何しろ自分たちの欲しい本が欲しい、というのも動機の一つなんだから、書店さえあればいいという物ではないし、支援したい出版社があればそれでいいかと言ったらそういう事でもないのである。
 もう一つ言うと、当時はいまいち素人丸出しだったので、舎の直接販売のように手数料上乗せしたいけどそれってどうしたら出来るんだ、というあたりで全員で顔を見合わせてへらへら笑って諸々が停止した。
 そんなわけで、伽鹿舎の本は密林に冒険に出掛けることをやめてしまったのだ。元より密林で生きていくだけの体力があるとも思えないもんな。暑いし(?)。
 
 が。
 やはり密林は密林なのだった。
 密林に存在しない本はほぼほぼ認知されない。書店で並ぶだけで買って貰えるほど当舎の本は目立たない。無数にある本の中から見つけ出してほしいと望むのはなかなかに無茶だ。
 こうなったらやはり密林にも九州領になってもらうしかないではないか。
 方法はそもそも一つしかない。e託の利用である。
 よくよく考えてみれば、そもそも伽鹿舎の本は再販制に噛んでいない。再販制ってなにかと言えば、要は定価から値下げとかしちゃだめですよ、という取り決めだ。そうやって書籍は全国どこでも同じ値段で買える、ようになっている。なっているのだが、その再販制を担保しているのは出版社と取次との間で交わされる契約であって、伽鹿舎の場合、それがない(ないが原則的にほかの本と扱いを変えると大変でもあり、もともと利益率が低いが為に、安売りする書店さんは基本的にないのだけれど)。
 
 そうだ、密林行こう。
 
 定価を好きに変えればいいのだ。手数料分を乗せてしまえばいい。密林の便利さを求めて九州に来てくれない読者さんなら少々お金が掛かっても許してくれるだろう。便利さには対価が必要だ。仕方ないではないの、だってコンセプトが九州を本の島にしよう、なんですものほらしょうがないではないの。
 余談だが、そもそも伽鹿舎の定価税込千円均一はちょっと失敗だった。エンドユーザーである読者から逆算してしまったのだが、そんな事情など書店さんには知ったことではないから、たいていの出版社と同じく送料や振込手数料の負担を求められるケースが多く、結果的に取引が成立しない場面がかなりある。
 なんで? と言われても、話は単純で、なにしろギリギリ過ぎて、送料や振込手数料を伽鹿舎で負担したら赤字になるのであって、出来ないものは出来ないのである。書店さんも利益3割の中からそんなもの負担したんじゃやってられない置き場の代金にもならんよ、と言われてしまえばそうですかというしかなく、それでもやっぱりなんとか税込千円を維持したいせいでお断りしてしまった書店さんには本当に申し訳ないことをした。まったくもって書店になくなって欲しくないと言いつつ助けになってるんだかどうだかはなはだ怪しい。打開策は延々と考えているが決定打は未だ浮かばず、ますます伽鹿の本は知られる機会を失っている。
 こうなったら、最初から掛率6割の密林で遠慮をする必要はないではないか。どうせ送料だって出版社もちである。掛かる経費分は貰うしかない。密林専用価格である。
 
 と。
 そんなわけで、密林に納品を始めることにした。
 まずは『片隅[tcy]01[/tcy]』(割高です!) と『幸福はどこにある』(こちらは全国解禁したため定価ですが、逆に言うとご近所の書店から取り寄せられますので、出来たら書店でお求めください!) から登録してみた。残りの本も順次登録する予定だ。
 当舎から直接買うより、九州の書店さんから買うよりずっと高くつく。つくのだが、密林じゃないと嫌だ! という方にはぜひともご利用いただきたい。ぜひとも。
 そうじゃなくても、ひとにお勧めするのにちょっと簡単にはなるかもしれない。なんでこんな高いの? と言われたら、実はこれこれしかじかだから、直接だったら普通に買えるんだけどね☆ なんて会話も弾む(?) かもしれない。
 密林も、九州領になるのだ。
 
 でもさ。
 本音では、九州に来てみて欲しいな、と思っている。
 素敵な書店があるから。そこで熱心に売ってくださっている書店員さんがいるから。その出会いは貴重で愉しいから。
 だから、九州の書店で買ってほしいなと思う。その体験そのものが、その本を更に特別にするのだ。
 本は。
 それ自体も物語を孕んでいる。だからこそ「物」「語り」だと信じている。

『アフリカの印象』全国解禁記念〜チバの印象〜

 伽鹿舎刊行『アフリカの印象』の全国解禁を記念して、伽鹿舎濁点遊撃隊としてはこれを書かず(描かず) にはいられない。
 そう、「チバの印象」だ。
 ルーセルによって幻想的に想起させられるアフリカの印象、そしてその幻想的なアフリカをより一層イメージ豊かにする坂口恭平によるドローイング(両者ともに本物のアフリカを肌で知っているわけではないにもかかわらず)。
 それに対抗するには、チバに二十数年住み、本物のチバを知るセキグチリョウヘイによる「チバの印象」を書(描) かなくてはならない。これは絶対に負けられない戦いだ。今回より数回にわたって「チバの印象」と題した連載をスタートする。
 

 この六月二十五日の四時ごろ、チバ国の住民にしてマリーンズファンクラブ会員、セキグチリョウヘイの観戦の準備は何もかも整っているように見えた。
 ダントツ最下位にもかかわらず、遊泳禁止の看板を掲げる必要のないくらいに澱みきった幕張の浜に近いZOZOマリンスタジアムでは、まだなお応援団の凄まじい熱気が残っていて、マリーンズファンはみな、唯一希望の持てる鈴木大地のバットに期待感を抱いていた。ライトに上がる大飛球。重苦しい空気を払ってくれるはずのマリンの風は、残念ながらレフト方向への逆風だった。
 
 ここは多くのチバ人が利用する総武線の車内。朝夕の通勤・帰宅ラッシュ時には、どこにでも見られる光景かもしれないが、イライラを隠しきれない人や周りが見えず迷惑をかけている人がやはり散見される。しかし彼らのことを、どうか今年だけは許してやってほしい。彼らはみな、マリーンズファンである。混雑する車内であなたの目の前にいる人は、あなたの鞄が膝に当たっていることに対してではなく、三振ばかりしている外国人助っ人たちに対してイライラの表情を見せているのだ。あるいは、ドアの目の前にぼうっと立ち、降車客の邪魔をしてしまっているあの人は、なかなか調子の上がらない投手陣の再建策について、まるで首脳陣のように頭を悩ませているのである。彼/彼女にとってそこは電車内ではなく、ライトスタンドあるいはグラウンド内なのだ。どうか今年だけは、許してやってほしい。
 

 間もなく足音が聞こえてきた。すべての視線が左の方を向くと、広場の南西の角から奇妙で派手な行列が進んでくるのが見えた。
 先頭には、赤いパンツに黄色い靴の、黒くて丸い耳を持つネズミのような生き物が二匹(もう片方はスカートであり、頭にはリボンもつけていることから夫婦またはカップルと推測できる) がおり、ゾウからリスみたいな生き物まで、さまざまな種にわたる動物の軍団を形成している。高校生時代のセキグチリョウヘイは、動物たちの行進に駆け寄る人々の最後尾を歩き、冷めきった表情で学生鞄を抱えていた。
 
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 ここは舞浜駅である。説明は不要であろう。ディスニーランド(シー) がある駅だ。しかしみなさまは、この舞浜駅に「ディスニーじゃない方の改札」があることはご存知だろうか。こちらは説明が必要であろう。「じゃない方」の改札から三年間、高校に通い続けたセキグチリョウヘイの昔話にお付き合いいただきたい。
 セキグチの通う高校は舞浜駅の「三つしか改札がない方」の出口から歩いて十五分ほどのところにある。教室のベランダからは「夢の国」内の建物の上の方が見えてしまったし、運動部に所属する彼にとっては夜に打ち上げられる花火は時報にしか思えなかった(「あと三十分で帰れるかな」)。彼にとってのディズニーは、決して「夢の国」なんてものではなく、ただただ毎日そばを通り過ぎる存在であり、さらにはクソみたいな部活に疲弊する自分と反比例するかのようなディスニー客の様子も相まって、むしろ「現実」を見せつけられるものでしかなかった。その頃のセキグチは、マリーンズにではなく、ディズニー客の首からぶら下がるポテトヘッドにイライラを募らせていたのだ。
 少し時間を巻き戻すが、セキグチは中学校卒業間近の冬に彼にとって初めての恋人を得た。そして三月、卒業記念も兼ねて、「初めて」のデートとしてディスニーランドに足を踏み入れた。彼女はセキグチに、「初めてのデートでディズニーに行ったカップルは別れるんだって」と言った。色々な意味で純粋だったセキグチ少年は、その検証が不要なほど結果が明らかな都市伝説(世のほとんどの人間は少なくとも一度は別れを経験するし、チバ人の多くはデートでディズニーに行くのだから) に対し、「絶対にそんなことにはさせないぞ」と誓ったのだった。二ヶ月後にフラれた。
 結局セキグチは高校三年間で一度もディズニーに足を運ぶことはなかった。
 
 
<注:セキグチリョウヘイは自らの画力と過去に向き合ったことで精神的に疲弊したため、「チバの印象」は今号にて連載終了となります。次回作にご期待ください>