【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第8回

最初の『本』
 
 
 
 今月、ようやくレーモン・ルーセルの「抄訳アフリカの印象」が発売された。公称の発売日は伽鹿舎の場合は常に[tcy]23[/tcy]日なのだが、そこは流通の都合もあって、書店の店頭に並ぶ時期はけっこうバラバラになる。
 お盆を利用して、南阿蘇村のひなた文庫さんと、刊行記念にこの本のカバーを自分で巻き、帯を描こう! というイベントをさせていただいたから、トップバッターでこの本を店頭に出したのは南阿蘇村と、熊本市の天野屋書店さんだった。
 画期的ではないだろうか。普通なら一番最後に、それも入るか入らないかわからない南阿蘇村に(というかそもそもこの村には図書館も本屋もなかったのだけれど)、どこより早く本が並んだのだ。『片隅』と言ったら本当に片隅の小さな村で、村の人たちはみんな笑顔でこの本のカバーを巻いてくれた。
 子どもたちが大喜びで帯を描いてくれて、その両親が必死でカバーを巻く、という面白い図が出来上がった。何枚も帯を描くものだから、親はその分だけカバー巻きをしなければならない。ひとりで3冊も4冊も巻いてくれた方もいる。
 ここで完成した本は、すべてひなた文庫が販売する。
 ちょうど、東京のH.A.Bookstoreさんと双子のライオン堂さんのタッグと、ひなた文庫が提携したばかりだ。東京のHABまたは双子のライオン堂で伽鹿舎の本を注文すると、ひなた文庫から納品されて、それはひなた文庫の売り上げになる。HABと双子のライオン堂とひなた文庫は仲良く手数料をわけあう、という、ちょっとアナログな提携を、みんな面白がって「やります!」と言ってくださった。九州限定の本だから、あくまで九州に買いに来ていただきたいけれど、難しいのなら、九州の本屋から東京の本屋を通じて手にして貰おう、そうして九州の本屋に親しみを持ってもらおう、あわよくばいずれ来て貰おう、と、そういう理屈でこの妙な提携は成り立っている。
 つまり、今HABか双子のライオン堂のどちらかで「抄訳 アフリカの印象」を注文すると、南阿蘇村のみんなががんばってカバーを巻き、子供たちが帯を描いた、そんな本が届くのだった。
 ぜひ、この取り組みがもっとたくさんの書店さん同士で広まって行けばいい、と思っている。
  
 さて、前回までを読み返していただけば分かるとおり、この本の発行まではとてつもなく紆余曲折があった。
 少なくとも、遡ること一年くらい前にはレーモン・ルーセルの「アフリカの印象」を抄訳で新訳、という無茶はなんとか実現する目途がついていた。
 坂口恭平さんに出せそうです! と言うと、坂口さんはとても喜んでくださったし、いとうせいこうさんが「それなら解説をやりたい!」と言ってもくださった。これは凄い事だ。絶対に良い本になる、とこの時点でもう確信があった。
 が、肝心の絵が「どこにあるかわからないから、もう少し待って」と坂口さんが言う。
 絵がないと始まらないうえに、新訳となれば訳す時間が必要になる。そういうことなら、ともあれ一年後に出すことを目指そう、と決めた。
 それまでに、まずはそもそも伽鹿舎は本当に本を作って流通させられるのか、試さなければならない。いきなり坂口さんの本を出してコケたのでは目も当てられないではないか。
 
 ちょうどそのころ、いわゆる同人誌、自分たちで自費出版した本の即売会である「文学フリマ」の福岡版が開催されると決まっていた。
 初めての九州での開催である。出来るだけ応援したかったし、面白そうなので覗いてもみたかった。
 すてきな新人さんと出会えるかもしれないし、伽鹿舎の存在を知ってもらうにもとても良い。
 福岡の出版社、書肆侃侃房さんが参加されるとも聞いた。だったら参加しない手はない。
 文学フリマ福岡の代表さんから連絡を貰い、せっかくやるなら福岡は[tcy]10[/tcy]年も続くブックイベント「ブックオカ」があるのだから、その行事の一環に文学フリマも入れて貰った方がいい、と提案して、ブックオカに紹介もした。なにしろブックオカは福岡の素敵な書店ブックスキューブリックの大井さんと、とてもいい本を出している一人出版社、忘羊社の藤村さんの二人が始めたのだ。
 伽鹿舎は、このお二方にはとてもお世話になっている。なっているというか、一方的にお世話になりに押し掛けた。出版のことなどさっぱりわからないから、大分の書店員さんに紹介していただいて藤村さんに弟子入り志願し、藤村さん経由で大井さんを紹介していただいたのだ。
「なんかいつの間にか巻き込まれたんだよね」
 そうぼやく大井さんは、けれど伽鹿舎の本をものすごく売ってくださっている。藤村さんはそれを横からとても面白がっていて、伽鹿舎が「金がない!」と叫んでいるとにやにやするのだった。
「そうでしょ? 資金繰り大変でしょ、あはは」
 
 すでに6月だった。文学フリマ福岡は[tcy]10[/tcy]月だ。
 たった4ヶ月で、何をつくれるか、と考えて、ともあれ伽鹿舎を知ってもらうには文藝誌だろう、と最初から思っていた。
 WEB文藝誌から始まったのなら、最初の本は文藝誌がいい。
 特に、新人さんが世に出る場を作りたい、というならなおさらだ。文藝誌ならたくさんの方の作品が載せられるし、作り方によっては、今まで本なんて読んだことがない人だって手に取ってくれる可能性がつくれる。
 そう、可能性が「ある」のではなく、「つくれる」と伽鹿舎では考えたのだった。

 では、『文藝誌』とはなんだろう。
 雑誌だろうか。小説が載っている雑誌?
 文藝とは、そんなに狭い範疇のものだろうか。文で出来上がった豊かな土壌。それが文藝だとするなら、詩も短歌もエッセイも評論も、誰かの作文だって、文藝には違いなかった。
 ぜんぶ、載せたいと思った。できるかぎりの、全部を。
 今、話題になっている朝の連続ドラマのモデルになった『暮らしの手帖』で、かつて編集者の花森氏はこう書いた。
 

 いったい、すぐれた文章とは、なんだろうか。

 彼が目の前にしていたのは、無数の「はじめて文章を書いたのでは」と思わせるひとびとの、切実なまでの「書き残したい」という情熱だった。
 文章の体をなしていない、とさえ思うそれらの投稿を、彼は「ぜんぶ活字にしたい」とそう書いた。
 現在、すぐれていると判断される「文芸」はいくらもある。溢れるほどに、ある。
 だが、それらを好み、貪るように読むひとたちが見向きもしないものに、ひそんでいるものはないのだろうか。あふれ出して零れ落ちてしまったものに、価値はないのだろうか。
 「すぐれている」と誰もが思うものは、中央の出版社が活字にするだろう。
 それを『片隅』がやる理由はあまりない。
 ならばここに、何を載せたらいいだろう。この本は、誰に読まれるのがいいのだろう。
 
 もう、決めていることがあった。
 『片隅』は、「本好き」が飛びつく本である必要はない――否、それどころか、その反対でさえあっていいのだと。

(つづく)

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