【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第14回

片隅と本屋の未来
 
 
 

 昨今、とてもとても話題になった文藝誌に「アルテリ」と「たべるのがおそい」がある。これはどちらも九州から発信された。
 特にというかとりたててというか、話題にならなかった当舎の「片隅」は、その九州発の文藝誌の嚆矢だった。だったというより、偶然そうなった。むしろ、そうでなかったら、とっくの昔に埋没して吹っ飛ばされている。一番乗り、大事。
 そんなわけで、片隅[tcy]01[/tcy]を刊行した際、いくつかの新聞が好意的に取り上げて記事を書いてくれた。
 それは「九州限定」が珍奇だったせいだろうし、このご時世に文藝誌を敢えて刊行する、ということが驚きをもって受け止められたせいでもあるに違いない。
 ついでに九州のこの文藝誌3誌が出揃うと、3誌をまとめてとりあげてくれる記事も出た。それはそうだろう。ここでも、忘れ去られても不思議でない「片隅」がちゃんと取り上げて貰えたのは一番乗りだったからだ。そうでなければ箸にも棒にも掛かっていない。
 そんなに自虐しなくても、と言うなかれ。これは厳然たる事実だ。仕方がない。
 別に出来が悪いとは微塵も思っていない。
 文藝に親しみ続け、読み巧者となった人たちに「物足りない」かもしれないのはわからないではないが、「片隅」は前回も書いたとおり「本を読むことに親しみがさほどない」九州の人たちに手にしてもらうために編んだのだから、そこに重点は置いていない。平明でとっつきやすく、気軽に読み飛ばせて、つまりはスマホを握ってなんでもない記事を読むのと同じように読んで欲しかったのだから、当然の帰結なのである。それをもって「出来が悪い」とは言わないだろう。単にターゲットが全く違うだけである。
 だが「片隅」を読めばどんな人でも必ず何かは残る、そういうものになったし、した、というつもりではいる。そうなるような作品を選んだしお願いした。これを足掛かりにほかの作品に目が向けば良いし、そうでなくても「本だって面白いんジャン」と思って貰いたかった。
 だから、「文学」や「ブンガク」を標榜する場面でいささか低く見られても全く構わない。それを低く見ること自体に「それは果たして文学的な態度なのか?」と問いたい気持ちはともかく、現実としてそうなることは想定の範囲内ではあった。よしとはしないが、そもそも既に形成されている「空気」を覆すことはとても難しい。
 さて、そんな中で学んだことがあった。
 文学のなんたるか、などではない。ごく当たり前に小さなことだ。それをマーケティングといえば、掠ってくらいはいる。そういうたぐいの事だ。
 何を学んだのか。
 単純なことだ。新聞記事にせよなんにせよ、「ひと」が見えないと、あまり取り合ってもらえない、というただそれだけのことである。
 当舎は全員が本業をもってボランティアで運営されている。そのために、誰も顔出しをしない、と決めていた。
 従って、ほかの2誌が、本を持ってにこやかに佇む誰かの素敵な写真になったのに対して、「片隅」は書影のみの掲載になった。
 実は、こうなると当舎の本など印象に残らないのである。ああ、なんか載ってたかも、それでオシマイだ。
 
 物が売れない時代になった、と言われる。
 それも当然で、これだけ趣味も娯楽も多様化し、ライフスタイルが千人千様になった今、誰もが手にするもの、なんていうのは生活必需品かつ消耗品に限られるのであって、服でも家具でもインテリアでも、およそ「個性」が幅を利かせるものといったらあらゆる方向に細分化されて当然なのである。
 ましてや本。
 そう、本なのだった。
 本屋さんが苦戦する、というのは当たり前の事で、その中で必死に頑張っている本屋さんを応援したいから伽鹿舎はこうして本を作っている。だが、その本を選ぶのは読者なのだから、読者に求められない本は本屋さんは並べる意味を感じない。
 つまり伽鹿舎が本屋さんを応援できるかどうかは、伽鹿舎のつくる本が読者に必要とされるかどうかに掛かっている。
 今のところ。
 それは半分成功して、半分失敗した。
 イベントやその他のいろんな場面で、直接お目に掛かり、店主や売り場責任者の方に「片隅」や「QUINOAZ」の話を出来た場合は、とても熱心に売っていただけたし、実際に売れた。
 そもそも伽鹿舎のやっていることは型破りなのであって、その型破りな様を知ると、本も買ってみようかと思っていただきやすいようだ。
 逆に、無数のチェーン店さんには、それが届かない。「片隅」がどんな本なのか、「QUINOAZ」が何故九州限定なのか、分かって貰えている率はとても低い。
 「ひと」が見えないと記事は忘れられる。「何故」が見えないと本は手に取って貰えない。
 共通しているのは、そこに「物語」が見えるかどうかだ。
 物が売れない時代、物を買う一つの基準として「物語」がとても強い力を持っている。
 同じような製品なら、より「物語性」が高いものを選ぶ傾向がある。それはそうだろう。見知らぬ誰かをいきなり応援はしにくいが、それが友達の友達なら応援したくなるし、見知らぬ誰かであっても、それまでどんなに頑張って来たかを知れば応援したくなる。
 伽鹿舎には、たぶん物語が詰まっている。
 懇意にしていただいている古書肆・天野屋書店の店主は、カウンターに伽鹿舎の本をずらっと並べてくださった。お客さんは嫌でも会計の時にカウンターに来る。並んだ伽鹿の本に目をとめて「これは新刊ですか?」と尋ねようものなら(!) 店主は嬉々としてこれらが刊行されたいきさつを語り出す。
 買わない人は、あまりいない。面白がって、次も買いに来てくださる方も、多い。
 店主は全部の本を読んだりは実はしていないらしい。それでも、面白い出版社だと、買ってくれる人は必ずいるのだった。
 
 少し前に、絵本作家さんの発言が大炎上しているのを目撃した。
 これだけ千差万別ありとあらゆるモノが溢れる中で、「自分の本」を選んでもらおうと思って、その結果が「誰かを蔑ろにする」ものになってしまっても、それでもいいのだというのなら、それはそれで一つの選択だ。四の五の言っている暇はない。今日も本は更に売れなくなっているし、明日もまた一つ書店が閉店する。
 だから、結果的にそれで彼らの本がちゃんと売れるのだったら、それはそれで良いんだろう。ただ、少なくとも伽鹿は同じことはやらない。
 伽鹿舎は「本屋さんを応援したい」と言い張って本を作ってきた。でもそれで伽鹿の本を売ってくれる書店さんが増える、なんてことも思っていない。書店も多様化していくだろう。伽鹿の本を面白い売りたい置きたいと言ってくれる本屋さんがいてくれるから、一緒にやっていきたいと願っているのだ。
 伽鹿舎は、半分うまくいったし、半分失敗した。
 伽鹿舎の持っている最大の武器はたぶん「物語性」だ。
 それをどうやったら九州中の本屋さんに伝えられるか、次の勝負はきっとそこに掛かっている。伽鹿舎の本が本屋さんを応援できるかどうかも。
 
 本屋さんは、本を選んでいる人を捕まえてこれがおススメですよと声高に言ってきたりはしない。
 だが、天野屋さんの例を見るまでもなく、書店員さんのおススメPOPの有無や、置く場所で本の売れ行きは容易に左右される。その静か過ぎる情熱にいつだって新しい世界の扉を開いてもらっている。
 ならば伽鹿舎は、いい本だと、面白い本だと信じるものを作っていこう。
 伽鹿舎がこれからも「物語」を紡ぐことが出来れば、きっとPOPにし易いだろう。個人書店なら、おすすめの本と訊かれて店主が語りやすかったりも、きっとするだろう。
 物語が積み重なったその先に、九州を本の島にする方法も必ずある筈だ。本屋の未来が暗いなんてこと、一度も思ったことがないから、今日も明日も明後日も、本屋さんたちに追いつくために走っていく。

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