【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第2回

それから先の事は自己の芸術的良心に従って行えば可い――
 
 そもそもの、話をしよう。
 伽鹿舎の、最初の最初、だ。
 まだ、本を出版するところまで行き着くなんて、思っていなかった、出来たらいい、くらいの、ぼんやりした概念でしかなかった伽鹿舎はそもそも何をしようとしたのか、だ。
 
 そう、最初は単純な事だった。ごく親しくしている作家さんが途方に暮れたようにある日つぶやいた、その一言がきっかけだったのだ。
「レーティングもジャンル制限もない投稿サイトって、なくなっちゃうんですねぇ」
 驚いた。
 個人でサイトやブログに作品を載せるのではなく、会員登録をして「投稿」し、たくさんの人の作品がずらっと並ぶタイプの「投稿サイト」は花盛りのように見えた。「小説家になろう」というサイトに至っては「なろう系」などと呼ばれて、そこから書籍化された小説群は一つのジャンルの様相を呈している。自由に誰もが作品を投稿できる「投稿サイト」は掃いて捨てるほどある、と思っていた。
 なのに、「レーティングもジャンル制限もない投稿サイトがない」とは。
 
 元々、加地は読むのも書くのも好きで、ずっと他人の作品も読んできた。
 それが高じて自分の本を作ったり、頼まれて友人知人の本を作る手伝いをしたりしてきたのだ。
 インターネット上での作品の公開と言ったら、個人サイトを作ることが主流だった時代からずっと、アマチュアの書き手が互いに読み合い助言し合い、時には血で血を洗うようなとんでもない騒動を起こしたりしながら発展(?) してきたのを見てきたのだから、年期が入っている。
 確かに、「投稿サイト」では「軽い読み物」が好まれるという印象はあった。書籍化されれば、懐かしの「ケータイ小説」に括られるものから「ライトノベル」と呼ばれるものまで、エンタメとしての「面白さ」を最上級とした物差しで測られるようなものがメインだったことは否定しない。
 重厚な作品や長編、文学的に過ぎる作品は、どうしてもデジタルな画面で読むには疲れてしまう、という印象が強いのも確かだ。
 だから、文藝賞作家の今村友紀さんが「クランチマガジン」を立ち上げたことをとても面白いと感じた。純文学作家が立ち上げた投稿サイトには、文学的な作品からライトな作品までまんべんなく投稿されたし、分け隔てなく感想がつき、交流があった。
 この「クランチマガジン」が、「発展的解消として消滅する」と発表されたときに、冒頭の発言は飛び出したのだった。
「レーティングもジャンル制限もない投稿サイトって、なくなっちゃうんですねぇ」
 言われてみて愕然とした。
 元より、純文学が投稿されて「見向きされる」サイトは殆ど存在しない。そのうえ、あちらのサイトもこちらのサイトも「こういうものは投稿してはいけない」という規約が事細かに決まっている。なるほど、「レーティングもジャンル制限もない投稿サイト」はないに等しかった。その僅かな「ある」が「クランチマガジン」だったのだ。
 結局、クランチマガジンさん自体は、存続した。途中、どうしても無理だというクランチマガジンの運営を手伝ったりもした。加地が多少なりとも世の中の人に知られている可能性があるとしたら、クランチマガジンの運営を僅かな期間でもやっていたからだろう。少しの方針転換をし、クランチマガジンは生き延び、最終的には今村さんご本人の管理に戻ることも出来た。
 だが、この「レーティングもジャンル制限もない投稿サイトが存在しなくなる」という危機を目の当たりにしたことが、伽鹿舎の母体となる漠然としたイメージを作ったのだった。
 
 レーティング、とはなんだろう。
 ジャンル制限、とは。
 どちらも、「こういうものはいけませんがこういうものなら良いでしょう」と決めたルールだ。
 それって本当に「文藝」に必要なのか、というのが加地にはどうしても納得がいかなかった。何故、そんなものが必要になるのか。無論、公序良俗に反するものをみだりに撒き散らすわけにはいかない。そんなことは当たり前のことだ。だが、どこで線を引くのか。明白に犯罪でない限り、それは各人の信念のはずだ。
 九州とは、とりわけ熊本とは縁の深い種田山頭火を加地は好きなのだが、その山頭火が、ある歌会の発足に当たり、書いた言葉がある。四つほど、些細な決まりごとを述べて、彼はこう書いた。
 

△申合は此位にして置きたい。此以上呶々すると面白くなくなる。それから先の事は自己の芸術的良心に従って行えば可い。それで腹を立てたり拗ねたり泣き出したりするような人は野暮だ。
△ただ一つ、もう一つ、私として――無遠慮な、ぐうたら男の私として、予じめ頼んで置きたいことがある。それは、若しも何かの間違で、諸君が右の頬を打たれなすったとき(或は接吻せられることもあろう)左の頬を出されないまでも、じっと堪忍して、願わくならば微笑でもしていて下るほどの雅量を持っていて欲しいということです。小供のするような無邪気な喧嘩ならば面白いけれど、大供のする睨合には感心しません――

 
 これ以上の、何が必要だろう。
 だから。
「レーティングもジャンル制限もない投稿サイトって、なくなっちゃうんですねぇ」
 こう作家さんに言われたときに暫く考えて、木間に言った。
 
 レーティングもジャンル制限もせず投稿を受け付けた上で、これはと思うものはどんどん世に知らせるべく公開し、本にし、「文藝」を信じきってやっていく、そういう場をつくりたい。
 
 伽鹿舎は、そんな風にして始まったのだった。
 
(つづく)

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