【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第7回

可能性と現実の話
 
 レーモン・ルーセルの「アフリカの印象」を抄訳とはいえ新訳で、と打診するに当たって、まずは誰か翻訳者を紹介して欲しい、と思って高橋啓先生に話を振った。
 高橋先生はご自分への依頼と思われたようだ。即座に「無理」と回答があった。ルーセルは難しいし、ましてや抄訳となると随分とやりにくい、というのがその理由だった。
 そのまま高橋先生とは「幸福はどこにある」を再刊する話に進んでしまったので、ここで道は一度途切れてしまった。いや、ある意味では違う道が開けたのだが、少なくともルーセルをどうするか、は宙に浮いた。
 普通そこで諦めませんか、とのちに色んな人に言われたのだが、基本的に伽鹿舎の方針は「縁があればどこかで勝手に繋がる」である。結果的に、そうなった。
 
 WEB片隅で素晴らしいロシア文学に関するコラムを連載していただいた沢月先生が、ご自分の伝を頼ってたくさんの方に打診してくださったのだ。
 途中、松本和也先生が思いがけず「翻訳とは関係ないけれども、評論やりたいです」と申し出てくれるなど、素晴らしい出会いもあった。
 最終的に、辿り着いたのが國分俊宏先生で、これは願ってもないとんでもない素晴らしい話だった。國分先生はフランス文学に関しては名の知れた方だ。光文社古典新訳文庫でのゾラの翻訳は素晴らしかった。
 是非、お願いしたいと思ったが、ここでまたもや問題があった。
 
 そもそも、伽鹿舎は採算がとれない。とれない以上、最低限の部数しか発行できない。だからと言って、本の売価が高くなるのは「本に親しむ人を増やしたい」という目的に反する。
 伽鹿舎が身銭を切っているのは全く問題ないが、作家や翻訳者に身銭を切らせるわけにはいかない。すでに名だたる仕事を成して来ている方への当然の敬意としても、それは出来ない。出来ないのだが、いかんせん部数は少ない。
 正直に、申し出た。恐らく千円前後の売価で、3千部程度しか刷ることが出来ず、新訳していただく労力には、とても見合わないと思います。なんとか8%の印税は確保したいと思うのですが、いかがでしょうか?
 國分先生は、構いませんと言ってくださった。驚いた。この頃では随分と配慮いただいたほうだと思いますともおっしゃった。二度驚いた。
 本を取り巻く情勢は、やはりとてつもなく、悪いのだと身に染みて実感した。
 
 少し、考えてみて欲しい。
 一冊の本を書くのに、どれだけの時間が掛かるだろう。同時に、その書かれた外国語の本を訳すのに、どれほどの労力が掛かるだろう。
 数ヶ月、年単位で取り組むことが多いのは自明だ。なのに印税と来たら高くても[tcy]10[/tcy]%である。
 これが翻訳となると、原著者や原出版社への印税や手数料だって掛かってくるから、勢い印税の率が下がらざるを得ない。
 印刷代は、どんなに足掻いたところで一定の額からは下がらない。下がらないはずだ。原版を作るのには十万部だろうと1冊だろうと同じだけの費用が掛かる。そこを無理に下げている印刷所がないとは言わないし、下げさせる出版社がないとも言わないが、そんなことをしていたらいずれ出版文化は死滅する。絶対にそんなことをしてはいけない。
「本って高いじゃん」
 という人をたくさん知っているし、あまつさえ作家志望の人ですら「高いから買いません」とにこにこしていたりするが、正直、それはちょっと待って欲しいといつも思う。
 あなたが、半年ずっと根をつめて創り上げたものに対して、例えば10万円しか貰えなかったら、これは職業として成り立たない。違うだろうか?
 だが、今の出版は、そういうふうに出来ている。
 せめて、せめてももう少しマシなことにしたい、と伽鹿舎では思っている。素晴らしい仕事をした人に、その仕事に見合うだけの対価はお支払したい。
 言ったところで、ない袖は振れないのが現実だ。今できる限度一杯をやって、いずれもっと報いられるようにしたい、と願っているし死に物狂いだが、その前に力尽きる可能性もそれなりに高い。いかんせん、伽鹿舎は非営利団体に過ぎず、青木の言葉を借りれば「江戸時代みたいなもの」で、儲けも手間賃も度外視、ないものとして、ただただ本を世に送り出すことしか出来ていないし、それも手持ちの資金が尽きたところで終わりなのである。
 
 いやいやいや、と思われた方があると思う。
 3冊も本を出版してるんだから、その分の利益があるでしょう?
 実は、ない。
 「片隅」については、知名度もなく実績もない伽鹿舎がどんな本を出したいと思っているのか知っていただきたいと思って、完売しても利益が全部で100円くらいしかない、という設定になっている。
 そんな馬鹿なと思うかもしれないが、「片隅」は01が千部、02が12百部である。
 たとえば片隅の装丁だと、印刷代にはおおよそ55万円くらいが必要で、これは1も2も同じだ(それにしても、藤原印刷さんだからこれで済んでいるのであって、本当ならもっと掛かっている筈だ)。一冊単価が千円だから、そもそも全部売れたら百万円なわけだが、印刷代を除けば既に半分以下の45万円になる。そこから原稿料と装画の使用料を払い、著者謹呈分をお配りすると、実は何も残らない。残らない上に、伽鹿舎が売価の千円受け取るケースは直売に限られていて、書店には7掛けで、取次には5掛け(手数料を引くとそのくらいになる) で卸しているから、マイナスになるのである。
 そんな馬鹿な商売があるか! と思われる向きには全くその通りですとお答えするしかない。そうしてでも、「千円で買ってもいいと思える本」を作りたかったのだ。
 物としての価値について、今の世の中はとてもシビアだ。豊かになって目が肥えているし、一昔前では考えられないくらい、インテリアにだって誰もがこだわるようになった。限りなく上質なものが求められるし、本のように「生活必需品」でないものには、純粋に娯楽として楽しめる、知的好奇心を満たす、などというだけでは足らず、物として持っていたいと思わせる価値がなければ、千円を出していただくのは難しい。
 ましてや、「片隅」には新人さんを多く起用している。原稿料の兼ね合いの問題も無論あるが、そもそも新人が世に出る場を作りたくて始めたのだから、出来るだけ新人さんをたくさん載せたい。となると、本が好きで本を読む人にとっては冒険になる。伽鹿舎同様、海のものとも山のものともしれない作家、作品に、千円を出していただかなくてはならない。
 谷川俊太郎先生の新作の詩が載っているだけで千円安いですよ、と言ってくれる方も勿論ある。あるがしかし、大多数の「別に本なんかなくても困らない」人にとってはそうじゃない。千円あればサービスデイに映画が見られるし(厳密には消費税分足らないが) 特売のTシャツがどうかしたら2枚買えるし、ちょっといつもより良いランチが食べられたりもする。それらを押しのけて、「片隅」に千円出してもらうと言うのは、とてつもないことだ。
 だから、何一つ妥協しないギリギリを詰め込んだ。自分たちなら持っていたい、持ち歩きたい本にした。リビングにぽいと置いておいても絵になる、素敵なカフェで広げても絵になる、そういう本にしよう、と思って作った。本に親しみのない人でも、気軽に読めるものにしたかったし、案外、文章を読むってのも悪くないなと思って欲しかった。
 本が好きな人は、抛っておいても本を読む。本に興味のない人に、本を手に取らせなければならない。そう出来るかもしれないものを作ろうとして、「片隅」は完成した。
 だから、マイナスでも良いのだ。良くはないが、伽鹿舎という出版社を知って貰うための投資だと決めてそうしたのだ。
 勿論、そんなことだけやっていたら単に貯金が尽きて終わるだけの話になってしまうから、そうならないために、片隅を刊行する合間に単行本を出すことにした。
 片隅には著者が多い。勢い、著者献本の冊数も多いし原稿料もケチらなくてはならなくなって作家にも相当申し訳ないことになっている。
 単行本なら話は別だ。著者、エージェント、翻訳者、デザイナーに画家、頑張ればこのくらいの相手だけでいい。
 たとえば、「幸福はどこにある」は、著者と原出版社に6%程度の使用料を払った。間に入ってくれたエージェントには送金から手続きまでしていただいて、それらの経費もろもろで3万円程度の手数料にしていただいた。掛かったのは売価千円の本を2千部だから、15万円程度だ。翻訳家の高橋啓先生には8%で諒解いただいた。既に刊行されたものの再刊だから、これで呑んでくださったのだと理解している。他に、素晴らしい装画を提供してくださった田中千智さんに画像使用料を払い、あの誰もが驚くカバーのアイデアをくださったテツシンデザイン事務所さんと、合わせて十万円程度。印刷代はざっと75万円に納まった。
 つまるところ、経費は120万円程度だ。これまた、全部売れたら200万円だが、実際には取次から55%、直取引先から平均65%の入金になるので、利益は知れている。
 ついでに、取次というところは1500部卸しても、まずはその半分の仮払いなので、750部の55%、要するに殆ど4分の1しかお金は入ってこない。
 次の本が出るまでに、全部売れて全部回収できたりは当然しないし、しかし経費は払わなくてはならないから、爆発的なベストセラーを生み出さない限りは一年365日常に資金繰りを考えていなければならないのだった。
 
 なんという夢も希望もない話だ! と思われるかもしれない。
 ここに普通どおり社員の給料を賄おう、などと考え出したらもっと悲惨だ。
 これでも本が高い、と思うだろうか。勿論、生活必需品としては高い。払わなければ払わないでも済むからだ。
 ただ、「よく生きよう」とするとき、本は必需品だ、とそう思う。
 それはどんなに低俗でくだらないといわれる本であっても、「よく生きる」為には必要なものだ。その人がそれを読み、何かしらを考え、あるいは笑い、あるいは憤り、あるいは悲しんでいる時間は、その本を読んでしか得られないものだからだ。
 人はただ食べて飲んでさえいればそれでいい生き物ではない。そうであってはあまりにも淋しい。
 
 だから。
 伽鹿舎は本を作る。作らせてもらえる間は、作って届ける。
 熊本地震に見舞われた九州で、本に何が出来る、と言われても、何もない場所から立ち上がる力をくれるのも、また本であって欲しいと思う。
 どうか、「本なんて」と思うあなたのところにこそ、届いて欲しいと願っている。
 夢はしばしば現実に押し潰されるけれども、それでも撥ね退ける力もまた、本が持っていると信じてやまない。
 
(つづく)

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