神様にむかって、書くと思う ──夢枕獏(作家)

先日、作家の夢枕獏氏のトークショーに参加した。
東京駅のまん前、八重洲ブックセンターさんで行われたものだ。
夢枕獏氏を知らない、という人はめったにいないと思うのだが、それでも映画「陰陽師」の原作者であるといえば大体「ああ!」と言っていただける、そういう作家だ。
加地は夢枕獏という作家がとても好きで、トークショーがあると聞いた瞬間、参加を決めた。
これがまた、面白かったのである。

敬意を込めてこう呼ばせていただくとして、獏さんの作品というと、加地にとっては「キマイラ」が真っ先に来て(これは父が買っていたので知ったのであった。まだ続いている) 餓狼伝にせよ、伝奇や格闘技の人、という印象が強かった。エロとグロと暴力の、ほとんど生命力というものが形をとった、としか思えない物語世界が構築され、それは力強く、随分と切なく、馬鹿らしくも爽快で明るさのなかに底知れぬ闇がある、そんな物語群だった。
が、そこへ「陰陽師」が登場した。
淡々とした筆致の中に四季折々が息づいて、軽妙なやりとりと歯切れの良い文章にするりするりと読まされ、得も言われぬ術に掛かったように呆ける、不可思議で美しく妖しく怪しい愉快な小説だった。こんな風にも書ける人なのかと驚嘆したわけである。そういえば、こんな風に思った事は記憶に新しかったはずなのに、この作品もかれこれ既に三十年近く書き継がれている。

獏さんは、エンタメ作家だ。

ただ、と加地はいつも思う。
エンタメと純文学と、何がそこまで違うというのだろう。
面白い作品は面白さの種類が違うだけでどちらも面白いのである。古典と文豪と現代作家と、何が違うというのだろう。素晴らしいものは素晴らしいし、読むことの価値に軽重はない。

言ってしまえば、すべての小説は謎をはらんでいる。
作家が何を言いたいのか、何を現出せしめようとしているのか、それは絶対に読み終わるまで解けない謎だ。
だったら小説というものは全部がミステリだと、言ってしまっても嘘ではあるまい。加地は、そういう意味での広義のミステリが本当に好きだ。

実は昨年、大分のカモシカ書店の店主と呑んだ時に「現代作家とか、小説とか、読む理由がちょっとよくわからない」と言われた。哲学書や古典でいいじゃないか、ほかに何が必要だというのかと。
彼は哲学科を出ており、彼の哲学に従って古書店を営んでいる。
「すべての小説は哲学を孕むでしょう」と加地は答えた。
どんな文章も、小説でなくとも、必ず哲学を孕む。文章というものは書き手の意志で紡がれるのであり、何をどう繕ったところで、その繕ったという事実さえもが書き手の哲学を反映する。哲学のない人間は存在しないし、ぼくは哲学なんてないですよという人には哲学などないという哲学があるのだ。
現代を生き、ましてや小説を書いて何事かを世の人々に読ませたいと思う人間の書いたものはその人の哲学を反映している。だとしたら、それを一切知らないまま『哲学』を語っても、絶対に何かが足らない筈だ。
加地はそう思うから、すべての小説を、出来る限りたくさん読みたいし広めたい。

娯楽小説に、そんな大層な意義はないよ、とは、書き手さえそう言うことがある。
無論、正しい。
たとえば獏さんも、とある事実と事実を結び付けて「なんと、そんなことになっていたのか!」と発見した際に「これで小説一本書ける! 書けないわけがない。これで小説書けないとか嘘でしょう」と思ったと笑って語った。
ただただ「面白い!」と思い、思いついたことを提示したいがために書かれる小説も、もちろんあるし、それは実に面白い。
だが、それだって哲学は孕むじゃないか。書き手が意図的であるとかないとか、そんなことはどうでもいいのだ。

加地は小説が好きだ。
面白かったり深かったり悲しかったり愕然とさせられたり、感情を揺り動かす小説というものが好きだ。
だからこそ、自分でも書いてみたいと思ったし、書いていた。
加地の場合は、だがそれは読者ありきの創作だった。読んだ人が面白いと言い素晴らしかったと言い、もっと読ませてくれと言ってくれるからこそ書いていたのであって、もしも誰も読まないのなら、自分ひとりで考えて考え付いただけで楽しくてそれだけでいい。
だが、獏さんがこう言った。
「ぼくは、人生をもう一回やってもいいくらい、書くネタあるんだよ」
なるほど、ネタだけなら加地にだって多分、ある。しかし獏さんの言葉は更に続いた。

「ぼくはね、無人島でだって書きますよ。誰もいなくても、うん、神様に向かって、書くと思う」

これが作家だ、と思った。
『片隅』で、小説を掲載する際には、『作家』であることを、何より求めたいと、そう思っている。

Photo:「キロクマ」御船町の菜の花