【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第10回

目論みと夢物語と現実
 
 
 
 先日、翻訳家の古屋美登里先生がTwitterで「翻訳家の翻訳料が6%は容認できない」というツイートをなさっていたのをご覧になった方はどのくらいいらっしゃるだろう。
 この連載でも書いたとおり、伽鹿舎が「抄訳アフリカの印象」の新訳を依頼した際に、たったの8%で申し訳ないと伝えると、國分俊宏先生は「この頃ではいい方だと思います」とおっしゃった。
 どう考えてもおかしい。
 一冊の本を書いて著者が貰える印税の相場は一割だ。一割だった。それこそこれもこの頃では下がっているそうで、消費税が予定通りに上がれば、著者より国が貰う税の方が多くなるらしい。そんな馬鹿な、と思うのだが、加えて現時点では既に翻訳家の場合は国の税より少ない金額しか手にしていないというわけだ。
 そんな馬鹿な。
 なぜ、翻訳というとてつもない偉業を成し遂げる仕事がそこまで軽んじられるのか。出版社の利益はその場合、いったいどれだけある計算なのだろう。
 と、ここで一般の人が考えるのは印刷代である。以上終了であったりする。そのせいで、「印刷代がそんなに掛かるわけがない! 出版社が搾取しすぎ!」とかいう声が上がったりする。
 流石にそれも違う。
 出版するには印刷代が必要だし、そもそも編集しなければならないし、文字を組み、校正し、表紙デザインをして、営業をして、イベントだって開いたりして、とにかく多くの人に知ってもらうための努力をしたりするわけで、印刷代が十ならその他の経費だって三や四は掛かる。
 作品がなければ始まらない「文藝」の場合、素直に考えれば印刷代以外については、著者が一番貰えるべきだし、翻訳者だって同じだけ貰えるべきだし、デザイナーさんや編集さんや校正さんだって生きていくに見合うだけは貰えるべきで、そのうえでなお、利益を確保して出版社は維持されていかなければならない。商業活動なのだから。
 ついでに言えば定価がまるまる出版社に渡ったりもしない。流通させねばならないから流通のための費用が必要だし、小売りしてくれる書店に利益がないと意味がわからない。
 さて。
 定価6百円の文庫本。印刷を除いたこれらのすべての人が受け取る額はどのくらいずつになるか。当然だが一冊当たり何十円単位でしかない。
 それを、少し覚えていてほしい。
 
 では伽鹿舎の場合どうか。
 前提として、伽鹿舎は現段階では利益を出すことを念頭に置いていない。舎員はボランティアだから、給料の必要もない(これは未来永劫そうする、ということでは無論ないのだけれど)。
 伽鹿舎の目論見は、九州を本の島にすることだ。
 本の消費量が全国でも格段に低い九州で、書店がまったくない町村だって溢れているこの島に、「本」という世界を知ってもらい、そこから得られる豊かさを享受してほしかった。もっと欲張って、身近に外国の文化と歴史を下敷きにした翻訳文藝があれば、これからの時代を生きていくうえで身に着けておいて絶対に損はない筈のあれこれが自然と身についていく、そういう環境を提供だって出来る筈なのである。
 そのうえで、九州限定であれば買いに来るしかない全国の本好きに支えられれば、きっと九州は本の島になるだろう。買いに来るひとだって、魅力あふれる九州を体感すれば、それは得難い経験でもある。誰も損しない。すごい、Win-Winではないか。
 増やせないにしても、今ある書店には残ってほしいから、その支援にだって多分なる。実際なっているのかはさっぱりわからないが、理屈ではそのはずだ。
 そんなわけで、計算が面倒という頭の悪い理由に加えて、部数が少なく定価が安い事も鑑みた結果、弊舎では税込の定価から著者や訳者の印税を計算することにした。
 すなわち、QUINOAZの基本の刷り部数は2千だから、定価税込千円の本が全部売れたら2百万円だ。
 基本のキ、で流通のための取次への卸率は65%だし、書店に直接卸しても70%な上に大層数が少ないので、おおむね65%。
 印刷代は伽鹿舎の場合は利益を出さない計算にしているので70万円くらいが通常で(つまり、利益を出そうと思うなら凝った本は作れないから、本を買う習慣のない人にもなんとか欲しいと思って貰えるように、それなりに凝った本にしたわけなのだけど。もっと言えばお願いしている藤原印刷さんというのは、きっちり職人さんを育て上げて一流の技術を誇るカッコいい会社だから、提示された見積もりを値切ったりもしたくないのだ。ひとを一人、一人前に育てようと思えば十年掛かる。それだけ投資して提供される技術には敬意を払いたい。そして、そう考えたときこの印刷代は、我々にとっては寧ろ「そんなに安くて良いのですか」と問いたいくらいの額だった)、というわけで、印刷代を払うとこの時点で手元にあるのは60万円である。
 今のところ、QUINOAZは翻訳しか出ていないので原出版社と著者に6%の12万円を、版権取得を代行してくれるエージェントに手数料など払って5万円を、更に翻訳者に8%で16万円、デザインや装画その他に10~20万円を支払うと、残りは7万円である。
 ただし、当たり前だがこれは全部売れたらである。
 実際には、献本その他で50~100冊くらいは目減りするし、あれこれの送料ほか経費を考えたら、数万円しか残らない。
 おまけに、売り出したら一ヶ月で全部売れるならこれでいいのだが、そんなわけはまったくなく、どれもこれも初版が在庫僅少になるまでに一年は余裕で掛かるのだから、本を作ると最初に手元のお金はマイナス50万円くらいになる。
 取次が払う65%があるだろう、と思われる向きもあるかもしれないが、取次が最初に払ってくれるのは納品分の半分だけで、それも発売から二ヶ月後だ。おまけにこれは当舎が契約している熊本ネットさんが好意でそうしてくれるだけで、ほかの取次ならもっと低いかもしれないし、手数料も高いかもしれないし、二ヶ月後にもう払ってくれたりもしない。
 
 伽鹿舎の最初の目標は、年に四冊だった。
 文藝誌を2冊、QUINOAZを2冊である。
 一冊を出すための100万円が最初にあって、一冊目が出る。半分が戻ってきて、半分は長い時間掛けて少しずつ回収する。次に二冊目を出す時、戻ってきた半分に、足らない半分を足して出す。同じく半分が戻ってくるのだから、同じ事が3冊目でも4冊目でも繰り返されて、つまり最初の100万円と次の3冊の不足分のための150万円、合計250万円があれば、一巡はするわけである。
 長い時間を掛けて回収する分で、その他の経費を賄い、どの程度回収できるかで、二巡目をどうするか決めよう、ということになった。
 結果的に、どの程度も何も、一冊分を出すほどはやっぱり回収は出来ない。足らない分を足して、なんとか出してみたところで、もう一つの方法を試すことにした。
 つまり、点数を増やしてみたのである。点数が増えれば、一旦支払って貰える金額も増えるが当たり前に支払う額も増えるから、一見意味がない。のだが、二巡目である以上、一巡目の本の代金の回収が少しずつ進む筈であって、合わせ技でなんとかなるかもしれない、というのが目論見だった。
 結果として、これは良い方法のように見えた。
 ただし、誤算が出た。熊本地震である。
 熊本地震とほぼ同時に刊行された文藝誌はまるっきり動かなかった。
 間もなく二巡目も終了しようとしている現在、そんなわけで、結果は一巡目と大差なくなってしまった。
 
 目論見は目論見として、その通りに行くとは限らない。
 現実の方が相当にシビアだった、ということでもあるし、伽鹿の本にそれほどの訴求力も魅力もなかったのだ、ということでもある。
 無料でなら手に入れたいという人はいてくれたが、わざわざ通販してまで買おうと思ってくれる人は思った以上に少なかったし、ましてや九州まで行こう、という人はもっといなかった(実際いただけで凄いと言われたが、もっと居て欲しかったのだからこの言い方にならざるを得ない)。ついでに言えば、無料で手に入れた結果、かなりの高評価をくれた人でも、次を買おうとはしてくれなかった。
 ごくごく僅かな熱心に支えてくれる人たちだけが、今、伽鹿の本を全部買う、という素敵な支え方をしてくださっている。
 始めた当初、取材してくださった幾人かの記者さんたちは「面白いし、素敵な試みだから、必ずファンが付きますよ。スポンサーも期待できるし、寄附だって、買う人だってたくさんいますよ」と嬉しそうに言ってくださることが多かった。
 期待をまるっきり裏切ってしまっているのだが、そんな事にはもちろん、なっていない。
 ファンです、と言ってくださる方は確かにいてくれて、それは本当にありがたくて嬉しいことだけれど、たった千冊が、たった2千冊が売り切れないということは、全国にいる一億人の中のたった2千人に訴求できなかったということでもある。
 
 この連載で、伽鹿舎の文藝誌は「本好き」に強烈にプッシュされなくてもいいのだ、と書いたことがある。
 本好き、の要求レベルは高い。恐ろしく高い。それは熊本では伽鹿より何百倍も評価されている雑誌「アルテリ」を見てもすぐにわかる。
 だが、「アルテリ」を凄いと、面白いと、そう思える人たちが買う本では意味がない、と思っていた。今でも思っている。
 もちろん、「アルテリ」は凄い本だ。みんな買って読んだ方がいい。だけどそんな凄い本は、「いや意味わからん」「難しい」という人の方が当たり前だが世の中にはよほど多いのである。文学に通じて、その文脈で、文法で語り考え読むことの出来る人はそこまで当たり前じゃない。そんな訓練はされていない。
 だから。
 本の島、は。
 知識と知恵と得た言葉を使って、自分自身を真っ直ぐに保って生きていくための、よりよく生きるための、すべての人の為のごく基本的な武器を提供する島でなければならないと思っていた。
 RPGでいえば最後に手にする伝説の剣ではなく、家から出たときにもう手にしていられる樫の木の棒でなければならない。
 
 結果として、ごく少数の「初めて本をまともに読んだ」という人たちから伽鹿の文藝誌は歓迎されたし、買って貰えたが、本好きには「今後に期待」と言われて終わっているところがある。逆に、QUINOAZは本好きないし翻訳好きが買ってくれるだけで、ほかにほとんど広がっていっていない。唯一『幸福はどこにある』だけが爆発的に広がったのは、これは韓国の大スターが同じ本の韓国語版を読んだことが知れ渡っていたお陰で、ファンの皆さんが買ってくださったのだった。概ね「読み易かった」「素敵だった」ととても好意的に受け入れてくださったから、方向性は間違っていなかったのだろう。だが、伽鹿は未だに他の本で同じ事を起こせていない。
 ただただ、伽鹿がもっとダイレクトに必要な人に届けられないからだ。
 本の形をしている以上、本である時点で手に取られないことを、どうやって覆すのか。
 
 夢物語ばかり語っている、という人はいるだろう。言われても仕方ない、とも思う。
 けれど、文藝誌「片隅」を経て、ごく平明で普遍的で上質な翻訳書を、そこから先を、順に読み続けることで出来る「本の島」を、誰もが武器を手にして、自分の言葉で語り、抵抗することの出来る社会を、実現することはきっと未来を良くするはずだ。
 冒頭の、印税の下がりすぎ問題だって大問題だ。伽鹿の最終目標は、翻訳は1割、日本語の作家なら、もう少し頑張って一割強の印税なのである。野望かもしれないが、本当はそれだけの価値があることの筈だ。何故ならこれは生きるための武器なのだから。
 
 三巡目をどうするのか。
 考えあぐねている。何もよい知恵はない。もしかしたら、数年の沈黙期間を設けることになるのかもしれない。
 目論見と夢物語を現実にするために、ただひたすら考える。他に、出来ることなど今はない。下り道を行こう。いつか、登り道に変わるまで。
 
※と、かっこよく締めたいところだがそこは伽鹿なので蛇足を少々。
※スポンサーもアドバイザーもいつでも求めております。切実に、求めております!!
※しょうがないなー、年間五百万でいいの? あげるからやってみな! とかいう太っ腹な篤志家は特に求めております。お客様の中にアラブの石油王はいらっしゃいませんかー!
※今後の予定された本を期待してくださる方は、ぜひ、周囲にもおすすめください。こういう頭の悪い出版社があるんだけど、馬鹿だから助けてやんないと、などとご勧誘いただけますと助かります。勧誘された方はぜひとも更なる勧誘を!(ネズミ講ではありません)(ネズミ講と違いまして、伽鹿の本が手に入る以外の何も起きませんが、未来が良くなるかもしれません。理論上はよくなります!)

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