【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第11回

片隅は、そこに立てば中心になる
 
 
 
 時計をぐるっと巻き戻そう。
 伽鹿舎の最初の本、つまり文藝誌『片隅[tcy]01[/tcy]』が出たのは、二〇一五年の秋だった。
 一〇月二三日、という公称発行日に合わせて書店に並べるには、どうやら取次の二〇日の定期配送に乗せるのが一番安いらしい。ではそれで、ということになったが、となるとその三日前には納品が終わっていなければならず、土日を勘案するとどうやっても一五日前後には納品、という話になった。
 さてその日に納品するには、印刷所にいつ入稿すれば良いかと尋ねると、前月末が望ましい、という。要するに九月末である。
 最初の本なので、絶対に修正が発生しまくるのはわかっている。逆算すればそれこそ前月一五日には一度データを見て貰った方がいいのだし、束見本(実際に使用する紙で実物と同じように製本した冊子。印刷がまったく入っていないので紙の色のままで出来上がる) だって作って貰わねばならないし、校正紙だっていくらなんでも一回目は見た方がいいに決まっていた。
(余談だが、刷り上がりの色を確かめてもっとこうしてとかああしてとか印刷所に指示をするという、いかにもプロっぽい素敵な作業であるところのいわゆる「色校正」などを行うと当然だが別途印刷代金が発生する。そのためだけに刷って貰うので割高である。しかし、本に親しみのない人にも手に取ってもらうという当舎の方針に則った結果、売価の「千円均一」を目指しているから、出来るだけお金を掛けずにつくらなくては流石に死んでしまう。一度目だけ主要部分の校正をする以外は、藤原印刷さんを信じることにして、色校正は全く行わないことにした。本当にいいんですかと三回くらい念を押されたのだが、信じてます! と全員で真顔で言ってみたところ、藤原さんは沈黙したのだった。なお、現物を見ていただければわかるとおり、藤原印刷さんはこれに見事なまでに応えてくださっていて、これだからちゃんと職人さんが職人技を発揮してくださるこういう印刷所にお願いしたいと思うのである)
「てことはさー」
 九月頭に、データはそろっているつもりで作業すれば間に合うかな、というのが伽鹿舎の実働部隊のゆるすぎる判断だった。従って作家さんたちには手を入れてもらう時間を考慮して八月頭に一度読ませてほしいとお願いすることになった。
 そもそも作ろうと決めたのが夏目前で、これは恐ろしいタイムスケジュールである。
 ともかくWEB片隅に書いてくださっていた作家さんにお声掛けして原稿を集め、一部は残念ながら没になったり、何度も修正をいただくことになったりしたのだが、なんとか一冊にはなりそうだった。
 ただ、問題があった。
 まず伽鹿舎が知名度ゼロである。どう考えても『噂のフォークデュオ チ☆メイド』の方が断然知名度がある。(熊本出身のギャグ漫画家うすた京介氏の傑作『セクシーコマンドー外伝 すごいよ[tcy]!![/tcy] マサルさん』に登場したマサルさんの想像力の産物である。なんのこっちゃと思われた方は借りるか買うかして読みましょう)
 ウォンチュ! とか言っていても始まらない。知名度ゼロの出版社が、新人満載の文藝誌を突然出したとして手に取って貰えるとは思えない。困った。幾ら坂口恭平さんの書き下ろしの詩を掲載している(しかも本人の写真付き) と言って、それだけで本を買わない九州の人々が買ってくれるわけはない。はるばる九州外から買いに来ていただける自信もちょっとない。世はマーケティングで動いているし宣伝がモノをいうのであって、ただ並べれば売れるなんてことはよほどの奇跡が起こらないとありえないのである。
 
 既存の文藝誌は連載物が載っていて、基本的には小説や評論や書評や特集記事や合間に挟まる広告や広告で出来ている。要するに広告費で賄う「雑誌」だ(ちなみに出版分類上、広告がないと雑誌と呼ばない、ことになっている)。
 そうではなく、本にしよう、と思った。
 一冊ずつが個性のある、毎回違う顔をした「本」だ。
 文藝は、もっと広いのではないか、と常々思ってはいた。短歌も俳句も詩も、子どもの作文も純文学もミステリもSFもエンタメも、書評もエッセイも、全部どれもこれも、文であれば文藝の筈だ。だから、それぞれ「いいな」と思ったものをとにかく載せる。そういう方針でやろうと思った。
 ただし、一冊の本として、『片隅』という本として、常に「片隅」が感じられる、ということだけに気を配る。1号でなく1巻に限りなく近いものを目指そう、と決めた。
 そうやって坂口さんの詩や、書評や小説を並べて、デザイナーの飯田に「読み易いけどちょっとあんまり見たことない、という紙面にしてほしい。スッキリしておしゃれでカッコいいのを頼む」と無茶を言い、飯田を発狂させながら作業は進んだ。
 前段で登場した印刷を担当する藤原印刷の営業さんは社長のご子息で、「いや面白いっすよ」とニコニコ笑って付き合ってくれたのだが、さすがに「本文は、カラーとモノクロで紙を変えたくないんです。紙が変わると連続性が失われるので。ただし、同じ紙だけどカラーが綺麗に出るものがいいです。あ、でも手触りがちょっとラフな感じがいい。敢えてデジタルじゃなく紙の本にするなら、めくるときに質感としてちょっとだけ引っ掛かりがある、さらっと印象が残るのがいいので。あとですね、持った時に軽くないと困る。出来たらスマホと同じかそれ以下の重さにしたいんですよ、スマホの代わりに持ち歩いてどこででも読んで貰いたいので」とか言われるに至って真顔になった。そこから今に至るまで、常に藤原さんは伽鹿の要求にお茶を吹いては、それでも「探します」とあちらこちらを奔走してくれている。
 徐々に形になっていく文藝誌『片隅』の、表紙デザインを飯田が作っては「ちょっと違う」と口を出し、お互いにああでもないこうでもないと散々こねくりまわして、これだ! という形が定まったのはとんでもない入稿直前だった。
 そもそも、スマホを眺めるように待ち時間や空き時間に読んで貰おう、持ち歩いて貰おうと思っていたから、当然女性のカバンにも入るサイズにしよう、という意図もあった。めくりやすさや読み易さはもちろん、重さを軽くするためや、書店で並んだ時にちょっと目を惹くことの期待もあって、限りなく正方形に近い変形を選んでいる。おかげさまでデザインのおさまりが難しいことこの上なかったのである。ミリ単位で配置を変えて、ようやく現在のバランスに落ち着いた。
 その間にも原稿が届き、修正を依頼し、版面を組んでいた。全体像はもう見え始めている。だが、どうやっても何かちょっと物足りない感じがあった。あと一つ、何か一つ、欠けている。
 何が、と言われても困るのだが、とにかくぼんやりしている。一見すると全体として何の共通項もなさそうな作品が並んでいる(もちろん共通項はあるのだけれど) 以上、仕方のないことではあった。あったが、どこかに一本、何か通ったものが見えて欲しかった。だが現時点ではそれが表に出てこない。
 困ったな、と思い始めた7月も中旬、伽鹿舎の福岡方面の諸々をお手伝いしてくださっている本郷さんから思いがけないメッセージが届いた。曰く。
「実はギターの師匠が、音楽繋がりで谷川俊太郎先生に繋げられるそうなのですけど、どうしましょう?」
 どうしましょうではない。
 なんだそれは。本郷さんはクラシックギターを嗜んでいる。その師匠がそう言ってくださったのだという。ちょっとすごい。確かに俊先生は息子さんと一緒に音楽イベントにもよく参加なさっている。思いがけないところから思いがけない話が飛び込むものである。いやいや、俊先生の詩がもし載せられるなら、それこそが「芯」になるに決まっていた。欲しい。とても欲しい。だが。
「ものすごく時間がタイトなのですが大丈夫ですか……というかそもそもこんなまだ影も形もないようなところからお願いして大丈夫ですか」
 本郷さんを通じて、「俊先生、こういうの大好きだから、少なくとも興味は持ってくださるよ」と伺った。そうか、それなら駄目で元々だ、お願いだけはしてみよう。
 本郷さんは飛び上がって喜んだ。そもそも俊先生のファンなのである。というより、この偉大な詩人を嫌いなひとがいるのだろうか。
 瞬く間に連絡先が届き、お願いの文面をしたためて、時間がないのでFAXでいいですよというお言葉に甘えた。ちょうど、先生は夏休みに入るところで、それでも数日中には一度東京に戻るから見せておきますとスタッフの方に請け負っていただいた。よし。送信してしまえばあとは何もしない。運を天に任せると言えばいいのか、縁があれば繋がるだろう。そういう主義なのでそのとおりにした。そうして、それっきりになった。
 そう、それっきりだった。
 本郷さんは焦れた。どうしても欲しい、と思ってくださっていた。やがて8月上旬、しびれを切らした本郷さんは「れ、連絡を、連絡をしてみても良いですか!」とお伺いを寄越した。
 少し考えた。そもそも夏休み中の詩人に、それをしていいのかどうか。けれどここまで言ってくださる本郷さんの気持ちは嬉しかった。よし、運は天(と本郷さん) に任せよう。
 本郷さんに、連絡してみてください、と伝えた。但し、決して無理強いはしないこと。
 そもそもお願いする条件が、こんな偉大な詩人に対するには随分な内容だった。謝金の額は知れていたし、スケジュールだってタイトすぎる。なのに書き下ろしをねだったのだ。断られたら食い下がらない、そう決めていた。
 やがて本郷さんから「つ、繋がりませんでした」とがっくりした連絡が届き、ちょっと笑った。落胆しきりの本郷さんに、ご縁があれば、また何かでお願いできますよ、と言った。
 実のところ、加地はこれにあまり落胆していなかった。まだ何も形にしていない伽鹿舎という存在が、先生の耳に入った、あるいは目に触れただけで十分じゃないか。
 ところが、である。往生際が悪いというのか、急に思い立って、後日、いきなり本郷さんに連絡した。今日なら良い気がするから、連絡してみてください。
 むちゃくちゃである。根拠など何もない。ただの勘だ。そもそも伽鹿舎のやってることの大半はむちゃくちゃなのだが、多分これが一番むちゃくちゃだった。
 返事は、すぐに来た。興奮した本郷さんの言っていることは半分くらいわけがわからなかったが、要約すればこうだった。
「俊先生ご本人が電話に出てくださって、もう、もう書いてくださってるって!」
 流石に驚愕した。なんだそりゃ! マジかよの極みである。だがマジだった。先生の実にのんびりした声が再生された。送り先のねぇ、FAX番号教えてくれますか、もう出来てるからねぇ。教えます教えます。焦り過ぎて番号に自信がなくなり三回くらい確認の為に携帯電話のメモリを見た。実は舎にはFAXがない。加地の自宅のFAX番号である。忘れる方がどうかしているが焦る余りか本当に忘れた。伝えた番号は、多分先生の字でメモされたに違いなかった。
 その日は、平日だった。
 当たり前だが、週末出版社の我々には本業の勤務がある。落ち着かないことこの上なかった。帰宅したら、真っ先にFAXを確認しなければならない。だが果たして谷川俊太郎からFAXが届く自室というのは自分の人生にあり得ることなのか?
 ありえた。
 赤い受信マークの点灯にあっけにとられた。マジか。マジだった。吐き出された紙に、先生の字で「伽鹿舎 本郷さんへ」と見えた瞬間に変な笑いが出た。ワープロ打ちされた詩を、一読、息をするのを忘れていた。
 それが、『片隅[tcy]01[/tcy]』の巻頭詩になった。
 詩を読んだ瞬間、パタパタと掲載順が決まり、この本の性格が決まった。
 似たような体験を、次に『片隅[tcy]03[/tcy]』ですることになるのだが、これは快感だった。すっと一本の何かが走り抜けて、本がいきなり命を持った、ような気がした。
 本郷さんに詩を転送し、感涙にむせぶ本郷さんを抛っておいて、次に考えたのは「この詩にどうしても、絵がつけたい」ということだった。
 既に8月も数日が過ぎている。9月頭にデータが揃っていれば、と確か考えたはずだった。初めて作る本だ。慎重になるべきだった。だが、どうしても、絵が欲しい。候補として浮かんだ絵描きさんが二人いた。
 まず地元の作家さんに駄目元で打診した。ありものを使わせていただくのでも、と思ったが、ちょうど個展の準備を控えておられて断られた。時間がなさすぎる、というのが理由だった。当たり前である。
 僅かに躊躇してから、次に田中千智さんに連絡を取った。
 実は、既に『幸福はどこにある』を再刊させていただけることがわかっていたから、面識もないこの新進気鋭の画家に、会いに行っていた。福岡での個展に、それこそ本郷さんを誘って押し掛けたのだ。まだ何も決まっていないけれど、決まったら、是非装画をお願いしたいんです、と信頼も実績も一つもあるわけがない初対面でのたまった我々に、目を丸くした千智さんは、何故か即答で「やります」と言ってくださったのだった。(後日、本当はね、と聞かされた千智さんの打ち明け話に、一体全体我々はどれだけ鬼気迫っていたのだろうかと赤面する羽目になったのだが、それはまた別の話だ)
 その千智さんに、「別件なんですけど」と持ちかけた。半月程度しか時間がないのですが、無理ですか。
 無理に決まっている。無理に決まっているのだが、訊いてみるだけなら、と思っていた。それで呆れられるとしても、だからなんだ、加地の人間性が疑われるだけだし加地の人生にそもそもこんな展開はない筈だったのだから別に誰も困らない(似たような理屈で坂口恭平さんにも連絡をとったし、翻訳家の高橋啓先生にもメールを送ったのだが)。
 少し考えて、千智さんはなんと描きますと言ってくださった。水彩ならそれほど時間も掛からないからと。マジかよ! マジだった。幾つかの水彩画の見本も見せてくださった。それはとても素敵だった。元より、田中千智という画家が好きで頼んだ身としては、願ってもないことだ。飛びつくように是非とお願いして詩を送った。数日後、千智さんは更にすごいことを言い出した。
「加地さん、どうしても描きたい絵が浮かびました。油でやってもいいですか? 少しだけ、時間を貰えたら描けるんです」
 呆気にとられた。マジかよ。マジだった。もちろん、彼女の絵の持ち味はアクリルと油でこそ、だ。谷川先生の詩が千智さんの中に何かを生み出して、それを『片隅』に掲載出来る!
 もちろん待ちますと答えた。最悪、詩の頁を含めた一束分だけ(本は基本的に一六頁ずつの束で印刷される)、あとで刷って貰うしかない。
 だが、千智さんは筆が早い。驚くほどに、速い。
 9月中旬。
 伽鹿舎実働隊は、すべてのデータを手にして、ほぼ最終形の『片隅』を眺めていた。
 これが、私たちの送り出す、最初の文藝誌だった。 

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