隅っこが好きな人間が『片隅』から

第1回/世界の中で僕たちができること

 
 この国の「片隅」まで本が届く仕組みを作ろう。そのためには業界の「真ん中」に行って根本から変えなくては……。
 そう決意して「真ん中」に飛び込んだ僕は、気がついたら「片隅」に追いやられていた。
 ここはどこだ?
 確かに目に映る世界に変化はない……月もひとつだし。やれやれ。そんなことを考えながら僕は手早くスクランブルエッグを作り、TVのリモコンに手を伸ば……
 
 おっと。月がふたつある世界に入り込むところでした。
 
 伽鹿舎及び『片隅』ファンの皆さま。はじめまして。関口竜平(りょうへい)と申します。
 ひょんなことから本の世界に迷い込み、さらにひょんなことから「片隅」の世界に迷い込むことになりました。以後、お見知り置きを。
 
 僕は小さい頃から隅が好きでした。端っこの席、部屋の隅っこ、そして「みんなと同じことをしたくない」というアウトロー精神(それをひとは捻くれ者という)。
 そんな僕が珍しく、出版業界の「真ん中」に行こうと決意したのは1年とちょっと前。
 時を同じくして、日本の「片隅」から日本の「ど真ん中」東京に侵略を試みていた伽鹿舎に出会いました(出会いの場は《九州領》H.A.Bookstoreにて、僕が偶々店主に代わって店番をしていたときでした)。
 そしてそんな運命的(宿命的?) な出会いのせいでしょうか、どうやら風向きが変わってしまったようです。いや別にですね、伽鹿舎のせいと言いたいわけではないんですけどね、やっぱり圧倒的な引力みたいなものがあると思うんですよ。
 そんなわけで前述のとおり、またしても「隅っこ」に行くことになってしまったのでした。
 何を言ってるのかよくわからない? すみません、村上春樹がいうにはメタファーとアイロニーだということなので(やれやれ、と思いながら読んでくださいね)。
 とにかくこのままでは本の仕事ができないではないか。出版業界をなんとかしたいというこの気持ちのやり場はどこに? そんな感じで悶々としていた僕に救いの手を差し伸べてくれたのは、やはり「片隅」からやってきたアウトローでした。
 そうです、新刊発行の度に「頭がおかしい」「意味がわからない」などと各方面から大絶賛を受ける伽鹿舎です。
 僕はこのとき、「類は友を呼ぶ」という諺を信じることを決めました(「お前もこっちの仲間だろ? 正攻法なんて似合わないんだよ。端っこから真ん中に目に物見せたい人間だろ?」という九州からの声が、いまならはっきり聞こえます。目が覚めました……)。【※編集部注:そんなこと言ってません!】
 
 ということで、隅っこが好きな人間が『片隅』から、本のことや出版業界のこと、本にまつわる(ふりをした) 雑多なあれこれを、これからお送りいたします。
 どうか、部屋の隅っこや電車の端っこでお読みください。そしてどうか、末長く細々とお付き合いくださいますように。
 
 前置きが長くなりましたが、初回のテーマは僕にとっての「片隅」の意味についてです。
 僕は修論でG・オーウェルの『1984年』といういわゆるディストピアものを扱いました。
 ディストピアというのは簡単にいえば、終末的な世界だったり圧倒的な格差社会といった「こんなところには住みたくねーよ!」と確実に思う世界のことなのですが、ここで作品の設定などを説明すると熊本どころかロンドンあたりまで飛行機で行けてしまうくらいの時間がかかるので割愛します。
 そんなディストピアものと格闘している最中に出会ったのがこうの史代さんの『この世界の片隅に』でした。
 不肖なことに映画を見るまでその存在を知らなかったのですが、その圧倒的な作品の質に度肝を抜かれ鑑賞後すぐに原作本とそのほか関連本を一気読みしました。そしてこれはひとつの論文にしなくてはならない、と修論も終わっていないのに決意したのでした。
 意外なことにこの両作品には「過去」「記憶」というテーマが共通していました。そのことについて書いたちょっとした書き物から、ここではエッセンスを抽出し「片隅」の意味と絡めながら皆さまにお届けしたいと思います。
 
 端的に言ってしまえば、両作品の違いは「過去」「記憶」を守ったか放棄したかという点に尽きます。そしてそれが作品の結末にも違いを生み出しています。
 映画や原作に触れた方が多いであろう『この世界の片隅に』から話を進めていきますが、こちらは「守った」方です。そしてその結末は、(もちろん悲しみはあれど) 未来への希望を感じさせるものとなっています。詳細は省きますが、主人公すずは物語の終盤でこのような思いに至ります。

生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居って ものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある うちはその記憶の器として この世界に在り続けるしかないんですよね

 すずは「記憶の器」としての自らの存在意義を意識するようになります。
 その記憶の中には、目の前で(自らの右手とともに) 失った姪っ子の晴美や同じく空襲で失った遊女のリンを筆頭に、まさに「悲しくてやりきれない」ものが多く含まれているのでしょう。それでもすずは、それらを守ることを決意します。その結果、物語の最後に生まれる希望の場面は涙なしには語れません(いまサントラを流しながらこれを書いているので、以降誤字脱字が生じてしまってもお許しください)。
 「過去」「記憶」は想像力を、そしてその先にある共感を生み出します(このことはユリイカ(こうの史代特集) に詳しいので、興味のある方は読んで頂ければ幸いです)。
 すずと戦災孤児との出会いは、まさにそれが結実したものといえるでしょう。ふたりはお互いに、「過去の記憶」を大切に守っていました。それらは同じ記憶ではないけれど、すずは戦災孤児と晴美を、戦災孤児はすずと母親を、それぞれ重ね合わせたことでともに歩む道を選ぶのです(挿入される右手の描写がもうそれはそれは大変感情を揺さぶります、あぁ……画面がぼやける……)。
 
 さて、『1984年』ではどうでしょうか。そこはビッグ・ブラザーの支配する一党独裁政権により「過去が常に改変・抹消されている」世界です。
 そんな世界に抵抗を試みた主人公ウィンストンは、自らの信じる過去を残すために日記をつけることから始めます。
 しかし結局、恋人であり同志でもあるジュリアとともに思考警察に捕まり、ビッグ・ブラザーを愛するように改宗させられます。
 その結果、彼は自身の内に守り続けていた記憶を放棄し、党の要求する事実を真実のものと認識する人間になってしまいます。彼は2+2=5であると信じることができるのです(これは誤字ではありませんよ)。
 過去を捨てたウィンストンは、物語の最後にジュリアと再会するも、もはやかつてのように愛することはできません。それはジュリアも同様です。彼らはお互いを裏切ってしまったのです(詳細はぜひ小説を一読ください)。
 つまり「過去」「記憶」を放棄した者には、ともに歩む道は提示されません。
 
 残念ながら僕たちが生きる現実の世界も、さながら『1984年』のような状態になってしまっています。
 思考警察は共謀罪に、二重思考はalternative factsに、過去の改変・抹消は秘密保護法や国の主の言動に、それぞれ現実化しているようにしか思えません。
 昨年大統領が代わったかの大国では、危機感からか『1984年』がベストセラーになったそうです(日本でもそうなると嬉しいのですが……)。
 そんな世界の中で僕たちができることは、たとえノートの片隅にだろうと、世界の片隅からだろうと、何かを記し、あるいは発信していくことではないでしょうか。その蓄積はいつしか大切な「過去」そして「記憶」となり、未来の人々が想いを馳せ、共感し、学びを得るものとなるのでしょう。
 過去そして記憶から僕たちが断絶されたとき、「彼ら」は歴史を繰り返します。しかし僕たちは、「繰り返されている」ことに気づかない。
 そんな世界を生み出さないために、「片隅」は存在するのでしょう。
 追いやられた「片隅」。忘れ去られた「片隅」。
 だからこそそこには、価値がある。強さがある。
 この世界のどこかにひとつでも「片隅」があれば、僕たちはそこから、何度でもやり直すことができる。
 日本の片隅から、出版業界の片隅から、ノートの片隅から、心の片隅から、愛をこめて。

 それではまた、いつかどこかで。
  
(つづく)

 

【今回の本】
  

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