前回、坂口恭平に張り合ってヘンテコな絵を描いたからだろうか。祖父の畑を自由に使っていいということを聞いたとき、「あ、モバイルハウス建てて本屋やろう」という考えが自然に浮かんできた。
三週間後、僕は熊本にいた。もちろん坂口恭平作のモバイルハウスを見るため、そしてひなた文庫でのイベントと熊本書店巡りツアーに参加するためだ。でもとにかく、そんな目的は措いといていいほど熊本の書店と街そのものに惹かれてしまった、というのがとりあえずの結論である。
とはいえ困ったこともあった。噂通りいたるところに奴がいて、オーウェルの『一九八四年』さながら“KUMAMON is Watching You” な世界だったのだ。また、奴が仕事を選ばないというのも事実のようで、アーケードの入り口には大体ぶら下がっていたのだが、こちらはアトウッド『侍女の物語』を想起させる風景だった。こう書くと熊本がディストピアのようだが、とにかくこれから熊本に行く人は気をつけたほうがいい。奴のお腹に癒された者は皆、2+2=4ではなく2+2=KUMAMON LOVEとなってしまうのだ。逃れる術を失ってしまう。いやー。くまったくまった。
熊本を構成する「熊」の話はここまでにして、ここからは「本」の話をする。
二日間で多くの書店を巡った。すべてをここで紹介することはしないが、とにかくよくここまで質の高い書店が揃っているなぁ、と驚いた。ぜひ、神出鬼没の熊に気をつけながら足を運んで確かめてほしい。
ただせっかくだからひとつくらい紹介しておこう。伽鹿舎と深いかかわりのある古書店「天野屋」さんに今回の書店巡りツアーでは大変お世話になった。まさに拠点状態で、何度ここを経由したかわからないくらい立ち寄った。店主の柏原さんには本当に感謝しているのだが、人当たりの良さというか、人を惹きつける引力のようなものがすごいのだ。まず伽鹿舎が引き寄せられ、次に僕を含めた伽鹿舎ファンが引き寄せられる、つまり柏原さんを中心とした銀河系が誕生している。柏原さんは太陽神ラーなのかもしれない。ラー柏原。あれ? 途端に売れない芸人っぽくなってしまった。
とまあ、実はこの天野屋で一冊の本に出会ったことが、今回のテーマを考えるきっかけのひとつになっている。その本は戦前の一九三〇年代に日本で刊行された「ヒトラーの男らしさを讃える」内容のもので、天野屋の棚にごく自然に存在していた。
おそらくこの本は刊行された当時はそこそこ、あるいはかなり売れたのではないだろうか。ドイツと同盟国だったこと、そして日本も全体主義化していたことを考えると、少なくとも好意的に受け入れられていたことは想像に難くない。つまりこの本はかつて「生きていた」。そして現代でもここ天野屋で「生きていた」がゆえに、僕がその存在に気づき、「こんな本がかつては当たり前のものとして売られていたのか」という強い衝撃をもたらしたのだ。
おそらく、いまこの瞬間も天野屋の棚で息をしていて、棚を巡ってその本に出会った者に何がしかの感情を抱かせているのだろう。過去、そして未来へと生き続ける本があり、そうやって本を生かし続ける「生きている本屋」が、熊本には天野屋以外にもまだまだたくさん存在していた。生き残っていた。
本屋が死ぬ。あるいは本屋がなくなる。または死んだ本屋とは。改めてその意味を考えてみる。
どんどん本屋がなくなっている。でも新しい本屋も誕生している。でもその新しく生まれた(あるいは生まれ変わった) 本屋は、果たして息をしているのだろうか。その本屋のなかに存在している本は、息をしているのだろうか。
先ほど「天野屋では本が生きていた」と表現した。正確には違うのかもしれない。本はずっと棚のなかで仮死状態で、人の目(手) に触れた瞬間に息をし始めるのではないか。だから本屋は本が息を吹き返すために、つまり読んでもらうために、あらゆる手段を講ずる。そしてその努力をしている本屋が、「生きている」本屋なのではないか。
本屋がそこに「存在する」ことと、「生きている」ことは決定的に違う。しかしそこを混同したままでは、もちろん本屋を残そうという想いは認めるが、本が死んでいる本屋、息をしていない本屋が生まれてしまう。そして残念ながら、そういった本屋が多く誕生しているように思える(もちろん「本は二の次でよい」という意思があってのことなら問題ない。それは僕がここで話をしている本屋ではないし、そのような括弧付きの「本屋」の存在を否定するつもりもない。むしろ明確な意思を持って「本のある空間」を作っているのだから、感謝の気持ちしかない)。
あまりの厳しい現状に、本屋を残すためには「利益」を得なくてはならない、という思いが強くなってしまっているのかもしれない。だから例えば粗利のいいカフェを併設する。しかし、確かに利益は増加しているかもしれないし結果として本屋は残っているけど、そこにある本は息をしているのだろうか。あるいは仮死状態から復活させてもらえているのだろうか。その本は、手に取ってもらえて、読んでもらえて、その人のなかに生き続けることはできるのだろうか。本屋を残すためには利益が必要だけど、その利益のために本が殺されている本屋は、果たして何屋なんだろうか。
人口はこれから減少し続け、ゆえに経済も発展する見込みのない日本では、出版業界に限らずどの業界も「たくさんの」利益を得ることは難しくなっていくだろう。本屋なんてジリ貧中のジリ貧だ。この考え方じゃ未来はないのではないか。少なくとも、「誰でも」本屋になれる未来は訪れない。
じゃあ思い切ってパラダイムシフト、コペルニクス的転回をしてみようじゃないか。
「利益は出ているが本が死んでいる本屋」の対極、それは「利益は出てないが本は生きている本屋」だ。なおかつそれで存在し続けることができればいいのだ。
なんだ。簡単じゃないか。要はコストを限りなくゼロにすればいいのだ。本屋にとって大きなコストとなるのは人件費と家賃だ。だったら、店員がいなくても回る仕組みと、家賃がかからない店舗を持てばいい。
幸運なことに、それができる場所を僕は手に入れることができた。だから僕はモバイルハウスを建てる。ソーラー発電で必要最低限の電力を賄う。コンポストトイレで「再生」した肥料は畑に使う。これで家賃・維持費はほぼゼロに抑えられる。人件費は僕自身にしかかからない。それに店主不在でも営業できることは三鷹の無人古本屋BOOKROADさんが証明しているし、まだほかにもやり方があるはずだ。
これが実現すれば、本自体での利益が少なくても「生きた本屋」を続けることができる、という証明になる。本屋が本だけで食っていけないのは、認めざるを得ない事実だと認識しよう。そう認識した上で、やはり「本を売って成り立つ本屋を続ける」にはどうすればいいのか。あくまでも本が中心にある本屋。店を続けるために本を犠牲にすることのない本屋。本を生かす本屋。
先述したように、僕は運に恵まれている。多くの出版業界人や本好きの皆様に応援していただいている上に、祖父が畑を持っていたためにこのような挑戦と実験のチャンスを手にした。いや、与えられた。
ならばこの幸運や受けた恩は、本を愛する人たちに、そして将来の「本屋」に、還元していきたい。「生きている本屋」を残すことで、本を愛する人たちの期待に応えよう。「生きている本屋」を生み出し、かつ残していくためのスキルやノウハウを見つけることで、将来の「本屋」のための礎になろう。
千葉の幕張に「本屋 Lighthouse」を文字通り作ります。次回からはその開業準備の風景もともにお送りすることにしますが、本屋になる前に、まずはTOKIO六人目のメンバーになろうと思います。