空色の地図 ~ロンドン編~7 ロンドンの建物 久路

 小学3年生のころだろうか、ご多分に漏れず私はシャーロック・ホームズの虜になった。学校の図書室でシリーズ作品を読み、近くの図書館では少年探偵ものを借りた。インターネットも無く今ほど情報が豊富でない時代、本の中に描かれるロンドンはどこか薄暗く、常に霧がたちこめる街だった。一頭立ての辻馬車を『ハンサム』と呼ぶのだと、私はその中で知った。馬の蹄が石畳に触れてたてる硬質な音や、霧にけぶるガス灯、ホームズが高速蒸気船に乗ったテムズ川。テレビで見たことも、勿論行った事もなかったけれど、本の中のロンドンは、確かに小学生だった私の中に存在していた。
 大人になり、ロンドンが想像だけの場所でなくなった今でも、訪れる度に私は軽いめまいにも似た興奮を感じる。子供の頃思い描いていた「ロンドン」がそこにあるからだ。
 勿論当時と違って『ハンサム』は走っていないし当然ガス灯なんて無い。それでもウエストミンスター寺院やロンドン塔、マーブル・アーチなどは昔と変わらずロンドンの街を見つめ続けている。石造りの橋も、もしかすると当時と同じかもしれない。古いほど価値があるとされるイギリスにおいては、百年以上前の建造物が当たり前に街中にあって、当たり前に使われているのだ。
 名作「オペラ座の怪人」が上演されるハーマジェスティーズシアター(女王陛下の劇場、の意) もそのひとつだ。二度の焼失を経て150年近く前に再建された建物が、現役で使われている。
 観客でごった返すロビーを通り抜け、受付で予約していたチケットを受け取る。エントランスで飴色に輝く柱も繊細な壁の細工も、どれを目にしてもため息しか出ない。天井の美しい装飾に目を奪われながら客席へ入ると、えんじ色のシートの半分が既に埋まっていた。高い天井にこだまするのは、アイスクリームやパンフレットを販売する売り子の声だ。観客は皆チケットとシートの番号を見比べながら自分の座席を探している。私も舞台にほど近い席に座る。きっと150年前もこの劇場は同じように、開幕前の静かな興奮に満たされていたのだろう。
 日本人の私には高すぎる座面も、舞台が始まる頃には気にならなくなっていた。素晴らしい俳優と美しい劇場。この二つが相まって一気にお芝居に引き込まれたからだ。
 ロンドンの街を歩いてみたなら、貴方はこの劇場だけが特別ではないことに気づくだろう。石造りの壁や美しい路地裏の教会を眺め、ホームズの歩いたかもしれない石畳を踏みしめる。ロンドンの街を歩きながら一世紀前に思いをはせるたび、私は小学生の頃に憧れた世界に飛び込むことができるのだ。

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