【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第11回

片隅は、そこに立てば中心になる
 
 
 
 時計をぐるっと巻き戻そう。
 伽鹿舎の最初の本、つまり文藝誌『片隅[tcy]01[/tcy]』が出たのは、二〇一五年の秋だった。
 一〇月二三日、という公称発行日に合わせて書店に並べるには、どうやら取次の二〇日の定期配送に乗せるのが一番安いらしい。ではそれで、ということになったが、となるとその三日前には納品が終わっていなければならず、土日を勘案するとどうやっても一五日前後には納品、という話になった。
 さてその日に納品するには、印刷所にいつ入稿すれば良いかと尋ねると、前月末が望ましい、という。要するに九月末である。
 最初の本なので、絶対に修正が発生しまくるのはわかっている。逆算すればそれこそ前月一五日には一度データを見て貰った方がいいのだし、束見本(実際に使用する紙で実物と同じように製本した冊子。印刷がまったく入っていないので紙の色のままで出来上がる) だって作って貰わねばならないし、校正紙だっていくらなんでも一回目は見た方がいいに決まっていた。
(余談だが、刷り上がりの色を確かめてもっとこうしてとかああしてとか印刷所に指示をするという、いかにもプロっぽい素敵な作業であるところのいわゆる「色校正」などを行うと当然だが別途印刷代金が発生する。そのためだけに刷って貰うので割高である。しかし、本に親しみのない人にも手に取ってもらうという当舎の方針に則った結果、売価の「千円均一」を目指しているから、出来るだけお金を掛けずにつくらなくては流石に死んでしまう。一度目だけ主要部分の校正をする以外は、藤原印刷さんを信じることにして、色校正は全く行わないことにした。本当にいいんですかと三回くらい念を押されたのだが、信じてます! と全員で真顔で言ってみたところ、藤原さんは沈黙したのだった。なお、現物を見ていただければわかるとおり、藤原印刷さんはこれに見事なまでに応えてくださっていて、これだからちゃんと職人さんが職人技を発揮してくださるこういう印刷所にお願いしたいと思うのである)
「てことはさー」
 九月頭に、データはそろっているつもりで作業すれば間に合うかな、というのが伽鹿舎の実働部隊のゆるすぎる判断だった。従って作家さんたちには手を入れてもらう時間を考慮して八月頭に一度読ませてほしいとお願いすることになった。
 そもそも作ろうと決めたのが夏目前で、これは恐ろしいタイムスケジュールである。
 ともかくWEB片隅に書いてくださっていた作家さんにお声掛けして原稿を集め、一部は残念ながら没になったり、何度も修正をいただくことになったりしたのだが、なんとか一冊にはなりそうだった。
 ただ、問題があった。
 まず伽鹿舎が知名度ゼロである。どう考えても『噂のフォークデュオ チ☆メイド』の方が断然知名度がある。(熊本出身のギャグ漫画家うすた京介氏の傑作『セクシーコマンドー外伝 すごいよ[tcy]!![/tcy] マサルさん』に登場したマサルさんの想像力の産物である。なんのこっちゃと思われた方は借りるか買うかして読みましょう)
 ウォンチュ! とか言っていても始まらない。知名度ゼロの出版社が、新人満載の文藝誌を突然出したとして手に取って貰えるとは思えない。困った。幾ら坂口恭平さんの書き下ろしの詩を掲載している(しかも本人の写真付き) と言って、それだけで本を買わない九州の人々が買ってくれるわけはない。はるばる九州外から買いに来ていただける自信もちょっとない。世はマーケティングで動いているし宣伝がモノをいうのであって、ただ並べれば売れるなんてことはよほどの奇跡が起こらないとありえないのである。
 
 既存の文藝誌は連載物が載っていて、基本的には小説や評論や書評や特集記事や合間に挟まる広告や広告で出来ている。要するに広告費で賄う「雑誌」だ(ちなみに出版分類上、広告がないと雑誌と呼ばない、ことになっている)。
 そうではなく、本にしよう、と思った。
 一冊ずつが個性のある、毎回違う顔をした「本」だ。
 文藝は、もっと広いのではないか、と常々思ってはいた。短歌も俳句も詩も、子どもの作文も純文学もミステリもSFもエンタメも、書評もエッセイも、全部どれもこれも、文であれば文藝の筈だ。だから、それぞれ「いいな」と思ったものをとにかく載せる。そういう方針でやろうと思った。
 ただし、一冊の本として、『片隅』という本として、常に「片隅」が感じられる、ということだけに気を配る。1号でなく1巻に限りなく近いものを目指そう、と決めた。
 そうやって坂口さんの詩や、書評や小説を並べて、デザイナーの飯田に「読み易いけどちょっとあんまり見たことない、という紙面にしてほしい。スッキリしておしゃれでカッコいいのを頼む」と無茶を言い、飯田を発狂させながら作業は進んだ。
 前段で登場した印刷を担当する藤原印刷の営業さんは社長のご子息で、「いや面白いっすよ」とニコニコ笑って付き合ってくれたのだが、さすがに「本文は、カラーとモノクロで紙を変えたくないんです。紙が変わると連続性が失われるので。ただし、同じ紙だけどカラーが綺麗に出るものがいいです。あ、でも手触りがちょっとラフな感じがいい。敢えてデジタルじゃなく紙の本にするなら、めくるときに質感としてちょっとだけ引っ掛かりがある、さらっと印象が残るのがいいので。あとですね、持った時に軽くないと困る。出来たらスマホと同じかそれ以下の重さにしたいんですよ、スマホの代わりに持ち歩いてどこででも読んで貰いたいので」とか言われるに至って真顔になった。そこから今に至るまで、常に藤原さんは伽鹿の要求にお茶を吹いては、それでも「探します」とあちらこちらを奔走してくれている。
 徐々に形になっていく文藝誌『片隅』の、表紙デザインを飯田が作っては「ちょっと違う」と口を出し、お互いにああでもないこうでもないと散々こねくりまわして、これだ! という形が定まったのはとんでもない入稿直前だった。
 そもそも、スマホを眺めるように待ち時間や空き時間に読んで貰おう、持ち歩いて貰おうと思っていたから、当然女性のカバンにも入るサイズにしよう、という意図もあった。めくりやすさや読み易さはもちろん、重さを軽くするためや、書店で並んだ時にちょっと目を惹くことの期待もあって、限りなく正方形に近い変形を選んでいる。おかげさまでデザインのおさまりが難しいことこの上なかったのである。ミリ単位で配置を変えて、ようやく現在のバランスに落ち着いた。
 その間にも原稿が届き、修正を依頼し、版面を組んでいた。全体像はもう見え始めている。だが、どうやっても何かちょっと物足りない感じがあった。あと一つ、何か一つ、欠けている。
 何が、と言われても困るのだが、とにかくぼんやりしている。一見すると全体として何の共通項もなさそうな作品が並んでいる(もちろん共通項はあるのだけれど) 以上、仕方のないことではあった。あったが、どこかに一本、何か通ったものが見えて欲しかった。だが現時点ではそれが表に出てこない。
 困ったな、と思い始めた7月も中旬、伽鹿舎の福岡方面の諸々をお手伝いしてくださっている本郷さんから思いがけないメッセージが届いた。曰く。
「実はギターの師匠が、音楽繋がりで谷川俊太郎先生に繋げられるそうなのですけど、どうしましょう?」
 どうしましょうではない。
 なんだそれは。本郷さんはクラシックギターを嗜んでいる。その師匠がそう言ってくださったのだという。ちょっとすごい。確かに俊先生は息子さんと一緒に音楽イベントにもよく参加なさっている。思いがけないところから思いがけない話が飛び込むものである。いやいや、俊先生の詩がもし載せられるなら、それこそが「芯」になるに決まっていた。欲しい。とても欲しい。だが。
「ものすごく時間がタイトなのですが大丈夫ですか……というかそもそもこんなまだ影も形もないようなところからお願いして大丈夫ですか」
 本郷さんを通じて、「俊先生、こういうの大好きだから、少なくとも興味は持ってくださるよ」と伺った。そうか、それなら駄目で元々だ、お願いだけはしてみよう。
 本郷さんは飛び上がって喜んだ。そもそも俊先生のファンなのである。というより、この偉大な詩人を嫌いなひとがいるのだろうか。
 瞬く間に連絡先が届き、お願いの文面をしたためて、時間がないのでFAXでいいですよというお言葉に甘えた。ちょうど、先生は夏休みに入るところで、それでも数日中には一度東京に戻るから見せておきますとスタッフの方に請け負っていただいた。よし。送信してしまえばあとは何もしない。運を天に任せると言えばいいのか、縁があれば繋がるだろう。そういう主義なのでそのとおりにした。そうして、それっきりになった。
 そう、それっきりだった。
 本郷さんは焦れた。どうしても欲しい、と思ってくださっていた。やがて8月上旬、しびれを切らした本郷さんは「れ、連絡を、連絡をしてみても良いですか!」とお伺いを寄越した。
 少し考えた。そもそも夏休み中の詩人に、それをしていいのかどうか。けれどここまで言ってくださる本郷さんの気持ちは嬉しかった。よし、運は天(と本郷さん) に任せよう。
 本郷さんに、連絡してみてください、と伝えた。但し、決して無理強いはしないこと。
 そもそもお願いする条件が、こんな偉大な詩人に対するには随分な内容だった。謝金の額は知れていたし、スケジュールだってタイトすぎる。なのに書き下ろしをねだったのだ。断られたら食い下がらない、そう決めていた。
 やがて本郷さんから「つ、繋がりませんでした」とがっくりした連絡が届き、ちょっと笑った。落胆しきりの本郷さんに、ご縁があれば、また何かでお願いできますよ、と言った。
 実のところ、加地はこれにあまり落胆していなかった。まだ何も形にしていない伽鹿舎という存在が、先生の耳に入った、あるいは目に触れただけで十分じゃないか。
 ところが、である。往生際が悪いというのか、急に思い立って、後日、いきなり本郷さんに連絡した。今日なら良い気がするから、連絡してみてください。
 むちゃくちゃである。根拠など何もない。ただの勘だ。そもそも伽鹿舎のやってることの大半はむちゃくちゃなのだが、多分これが一番むちゃくちゃだった。
 返事は、すぐに来た。興奮した本郷さんの言っていることは半分くらいわけがわからなかったが、要約すればこうだった。
「俊先生ご本人が電話に出てくださって、もう、もう書いてくださってるって!」
 流石に驚愕した。なんだそりゃ! マジかよの極みである。だがマジだった。先生の実にのんびりした声が再生された。送り先のねぇ、FAX番号教えてくれますか、もう出来てるからねぇ。教えます教えます。焦り過ぎて番号に自信がなくなり三回くらい確認の為に携帯電話のメモリを見た。実は舎にはFAXがない。加地の自宅のFAX番号である。忘れる方がどうかしているが焦る余りか本当に忘れた。伝えた番号は、多分先生の字でメモされたに違いなかった。
 その日は、平日だった。
 当たり前だが、週末出版社の我々には本業の勤務がある。落ち着かないことこの上なかった。帰宅したら、真っ先にFAXを確認しなければならない。だが果たして谷川俊太郎からFAXが届く自室というのは自分の人生にあり得ることなのか?
 ありえた。
 赤い受信マークの点灯にあっけにとられた。マジか。マジだった。吐き出された紙に、先生の字で「伽鹿舎 本郷さんへ」と見えた瞬間に変な笑いが出た。ワープロ打ちされた詩を、一読、息をするのを忘れていた。
 それが、『片隅[tcy]01[/tcy]』の巻頭詩になった。
 詩を読んだ瞬間、パタパタと掲載順が決まり、この本の性格が決まった。
 似たような体験を、次に『片隅[tcy]03[/tcy]』ですることになるのだが、これは快感だった。すっと一本の何かが走り抜けて、本がいきなり命を持った、ような気がした。
 本郷さんに詩を転送し、感涙にむせぶ本郷さんを抛っておいて、次に考えたのは「この詩にどうしても、絵がつけたい」ということだった。
 既に8月も数日が過ぎている。9月頭にデータが揃っていれば、と確か考えたはずだった。初めて作る本だ。慎重になるべきだった。だが、どうしても、絵が欲しい。候補として浮かんだ絵描きさんが二人いた。
 まず地元の作家さんに駄目元で打診した。ありものを使わせていただくのでも、と思ったが、ちょうど個展の準備を控えておられて断られた。時間がなさすぎる、というのが理由だった。当たり前である。
 僅かに躊躇してから、次に田中千智さんに連絡を取った。
 実は、既に『幸福はどこにある』を再刊させていただけることがわかっていたから、面識もないこの新進気鋭の画家に、会いに行っていた。福岡での個展に、それこそ本郷さんを誘って押し掛けたのだ。まだ何も決まっていないけれど、決まったら、是非装画をお願いしたいんです、と信頼も実績も一つもあるわけがない初対面でのたまった我々に、目を丸くした千智さんは、何故か即答で「やります」と言ってくださったのだった。(後日、本当はね、と聞かされた千智さんの打ち明け話に、一体全体我々はどれだけ鬼気迫っていたのだろうかと赤面する羽目になったのだが、それはまた別の話だ)
 その千智さんに、「別件なんですけど」と持ちかけた。半月程度しか時間がないのですが、無理ですか。
 無理に決まっている。無理に決まっているのだが、訊いてみるだけなら、と思っていた。それで呆れられるとしても、だからなんだ、加地の人間性が疑われるだけだし加地の人生にそもそもこんな展開はない筈だったのだから別に誰も困らない(似たような理屈で坂口恭平さんにも連絡をとったし、翻訳家の高橋啓先生にもメールを送ったのだが)。
 少し考えて、千智さんはなんと描きますと言ってくださった。水彩ならそれほど時間も掛からないからと。マジかよ! マジだった。幾つかの水彩画の見本も見せてくださった。それはとても素敵だった。元より、田中千智という画家が好きで頼んだ身としては、願ってもないことだ。飛びつくように是非とお願いして詩を送った。数日後、千智さんは更にすごいことを言い出した。
「加地さん、どうしても描きたい絵が浮かびました。油でやってもいいですか? 少しだけ、時間を貰えたら描けるんです」
 呆気にとられた。マジかよ。マジだった。もちろん、彼女の絵の持ち味はアクリルと油でこそ、だ。谷川先生の詩が千智さんの中に何かを生み出して、それを『片隅』に掲載出来る!
 もちろん待ちますと答えた。最悪、詩の頁を含めた一束分だけ(本は基本的に一六頁ずつの束で印刷される)、あとで刷って貰うしかない。
 だが、千智さんは筆が早い。驚くほどに、速い。
 9月中旬。
 伽鹿舎実働隊は、すべてのデータを手にして、ほぼ最終形の『片隅』を眺めていた。
 これが、私たちの送り出す、最初の文藝誌だった。 

【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第10回

目論みと夢物語と現実
 
 
 
 先日、翻訳家の古屋美登里先生がTwitterで「翻訳家の翻訳料が6%は容認できない」というツイートをなさっていたのをご覧になった方はどのくらいいらっしゃるだろう。
 この連載でも書いたとおり、伽鹿舎が「抄訳アフリカの印象」の新訳を依頼した際に、たったの8%で申し訳ないと伝えると、國分俊宏先生は「この頃ではいい方だと思います」とおっしゃった。
 どう考えてもおかしい。
 一冊の本を書いて著者が貰える印税の相場は一割だ。一割だった。それこそこれもこの頃では下がっているそうで、消費税が予定通りに上がれば、著者より国が貰う税の方が多くなるらしい。そんな馬鹿な、と思うのだが、加えて現時点では既に翻訳家の場合は国の税より少ない金額しか手にしていないというわけだ。
 そんな馬鹿な。
 なぜ、翻訳というとてつもない偉業を成し遂げる仕事がそこまで軽んじられるのか。出版社の利益はその場合、いったいどれだけある計算なのだろう。
 と、ここで一般の人が考えるのは印刷代である。以上終了であったりする。そのせいで、「印刷代がそんなに掛かるわけがない! 出版社が搾取しすぎ!」とかいう声が上がったりする。
 流石にそれも違う。
 出版するには印刷代が必要だし、そもそも編集しなければならないし、文字を組み、校正し、表紙デザインをして、営業をして、イベントだって開いたりして、とにかく多くの人に知ってもらうための努力をしたりするわけで、印刷代が十ならその他の経費だって三や四は掛かる。
 作品がなければ始まらない「文藝」の場合、素直に考えれば印刷代以外については、著者が一番貰えるべきだし、翻訳者だって同じだけ貰えるべきだし、デザイナーさんや編集さんや校正さんだって生きていくに見合うだけは貰えるべきで、そのうえでなお、利益を確保して出版社は維持されていかなければならない。商業活動なのだから。
 ついでに言えば定価がまるまる出版社に渡ったりもしない。流通させねばならないから流通のための費用が必要だし、小売りしてくれる書店に利益がないと意味がわからない。
 さて。
 定価6百円の文庫本。印刷を除いたこれらのすべての人が受け取る額はどのくらいずつになるか。当然だが一冊当たり何十円単位でしかない。
 それを、少し覚えていてほしい。
 
 では伽鹿舎の場合どうか。
 前提として、伽鹿舎は現段階では利益を出すことを念頭に置いていない。舎員はボランティアだから、給料の必要もない(これは未来永劫そうする、ということでは無論ないのだけれど)。
 伽鹿舎の目論見は、九州を本の島にすることだ。
 本の消費量が全国でも格段に低い九州で、書店がまったくない町村だって溢れているこの島に、「本」という世界を知ってもらい、そこから得られる豊かさを享受してほしかった。もっと欲張って、身近に外国の文化と歴史を下敷きにした翻訳文藝があれば、これからの時代を生きていくうえで身に着けておいて絶対に損はない筈のあれこれが自然と身についていく、そういう環境を提供だって出来る筈なのである。
 そのうえで、九州限定であれば買いに来るしかない全国の本好きに支えられれば、きっと九州は本の島になるだろう。買いに来るひとだって、魅力あふれる九州を体感すれば、それは得難い経験でもある。誰も損しない。すごい、Win-Winではないか。
 増やせないにしても、今ある書店には残ってほしいから、その支援にだって多分なる。実際なっているのかはさっぱりわからないが、理屈ではそのはずだ。
 そんなわけで、計算が面倒という頭の悪い理由に加えて、部数が少なく定価が安い事も鑑みた結果、弊舎では税込の定価から著者や訳者の印税を計算することにした。
 すなわち、QUINOAZの基本の刷り部数は2千だから、定価税込千円の本が全部売れたら2百万円だ。
 基本のキ、で流通のための取次への卸率は65%だし、書店に直接卸しても70%な上に大層数が少ないので、おおむね65%。
 印刷代は伽鹿舎の場合は利益を出さない計算にしているので70万円くらいが通常で(つまり、利益を出そうと思うなら凝った本は作れないから、本を買う習慣のない人にもなんとか欲しいと思って貰えるように、それなりに凝った本にしたわけなのだけど。もっと言えばお願いしている藤原印刷さんというのは、きっちり職人さんを育て上げて一流の技術を誇るカッコいい会社だから、提示された見積もりを値切ったりもしたくないのだ。ひとを一人、一人前に育てようと思えば十年掛かる。それだけ投資して提供される技術には敬意を払いたい。そして、そう考えたときこの印刷代は、我々にとっては寧ろ「そんなに安くて良いのですか」と問いたいくらいの額だった)、というわけで、印刷代を払うとこの時点で手元にあるのは60万円である。
 今のところ、QUINOAZは翻訳しか出ていないので原出版社と著者に6%の12万円を、版権取得を代行してくれるエージェントに手数料など払って5万円を、更に翻訳者に8%で16万円、デザインや装画その他に10~20万円を支払うと、残りは7万円である。
 ただし、当たり前だがこれは全部売れたらである。
 実際には、献本その他で50~100冊くらいは目減りするし、あれこれの送料ほか経費を考えたら、数万円しか残らない。
 おまけに、売り出したら一ヶ月で全部売れるならこれでいいのだが、そんなわけはまったくなく、どれもこれも初版が在庫僅少になるまでに一年は余裕で掛かるのだから、本を作ると最初に手元のお金はマイナス50万円くらいになる。
 取次が払う65%があるだろう、と思われる向きもあるかもしれないが、取次が最初に払ってくれるのは納品分の半分だけで、それも発売から二ヶ月後だ。おまけにこれは当舎が契約している熊本ネットさんが好意でそうしてくれるだけで、ほかの取次ならもっと低いかもしれないし、手数料も高いかもしれないし、二ヶ月後にもう払ってくれたりもしない。
 
 伽鹿舎の最初の目標は、年に四冊だった。
 文藝誌を2冊、QUINOAZを2冊である。
 一冊を出すための100万円が最初にあって、一冊目が出る。半分が戻ってきて、半分は長い時間掛けて少しずつ回収する。次に二冊目を出す時、戻ってきた半分に、足らない半分を足して出す。同じく半分が戻ってくるのだから、同じ事が3冊目でも4冊目でも繰り返されて、つまり最初の100万円と次の3冊の不足分のための150万円、合計250万円があれば、一巡はするわけである。
 長い時間を掛けて回収する分で、その他の経費を賄い、どの程度回収できるかで、二巡目をどうするか決めよう、ということになった。
 結果的に、どの程度も何も、一冊分を出すほどはやっぱり回収は出来ない。足らない分を足して、なんとか出してみたところで、もう一つの方法を試すことにした。
 つまり、点数を増やしてみたのである。点数が増えれば、一旦支払って貰える金額も増えるが当たり前に支払う額も増えるから、一見意味がない。のだが、二巡目である以上、一巡目の本の代金の回収が少しずつ進む筈であって、合わせ技でなんとかなるかもしれない、というのが目論見だった。
 結果として、これは良い方法のように見えた。
 ただし、誤算が出た。熊本地震である。
 熊本地震とほぼ同時に刊行された文藝誌はまるっきり動かなかった。
 間もなく二巡目も終了しようとしている現在、そんなわけで、結果は一巡目と大差なくなってしまった。
 
 目論見は目論見として、その通りに行くとは限らない。
 現実の方が相当にシビアだった、ということでもあるし、伽鹿の本にそれほどの訴求力も魅力もなかったのだ、ということでもある。
 無料でなら手に入れたいという人はいてくれたが、わざわざ通販してまで買おうと思ってくれる人は思った以上に少なかったし、ましてや九州まで行こう、という人はもっといなかった(実際いただけで凄いと言われたが、もっと居て欲しかったのだからこの言い方にならざるを得ない)。ついでに言えば、無料で手に入れた結果、かなりの高評価をくれた人でも、次を買おうとはしてくれなかった。
 ごくごく僅かな熱心に支えてくれる人たちだけが、今、伽鹿の本を全部買う、という素敵な支え方をしてくださっている。
 始めた当初、取材してくださった幾人かの記者さんたちは「面白いし、素敵な試みだから、必ずファンが付きますよ。スポンサーも期待できるし、寄附だって、買う人だってたくさんいますよ」と嬉しそうに言ってくださることが多かった。
 期待をまるっきり裏切ってしまっているのだが、そんな事にはもちろん、なっていない。
 ファンです、と言ってくださる方は確かにいてくれて、それは本当にありがたくて嬉しいことだけれど、たった千冊が、たった2千冊が売り切れないということは、全国にいる一億人の中のたった2千人に訴求できなかったということでもある。
 
 この連載で、伽鹿舎の文藝誌は「本好き」に強烈にプッシュされなくてもいいのだ、と書いたことがある。
 本好き、の要求レベルは高い。恐ろしく高い。それは熊本では伽鹿より何百倍も評価されている雑誌「アルテリ」を見てもすぐにわかる。
 だが、「アルテリ」を凄いと、面白いと、そう思える人たちが買う本では意味がない、と思っていた。今でも思っている。
 もちろん、「アルテリ」は凄い本だ。みんな買って読んだ方がいい。だけどそんな凄い本は、「いや意味わからん」「難しい」という人の方が当たり前だが世の中にはよほど多いのである。文学に通じて、その文脈で、文法で語り考え読むことの出来る人はそこまで当たり前じゃない。そんな訓練はされていない。
 だから。
 本の島、は。
 知識と知恵と得た言葉を使って、自分自身を真っ直ぐに保って生きていくための、よりよく生きるための、すべての人の為のごく基本的な武器を提供する島でなければならないと思っていた。
 RPGでいえば最後に手にする伝説の剣ではなく、家から出たときにもう手にしていられる樫の木の棒でなければならない。
 
 結果として、ごく少数の「初めて本をまともに読んだ」という人たちから伽鹿の文藝誌は歓迎されたし、買って貰えたが、本好きには「今後に期待」と言われて終わっているところがある。逆に、QUINOAZは本好きないし翻訳好きが買ってくれるだけで、ほかにほとんど広がっていっていない。唯一『幸福はどこにある』だけが爆発的に広がったのは、これは韓国の大スターが同じ本の韓国語版を読んだことが知れ渡っていたお陰で、ファンの皆さんが買ってくださったのだった。概ね「読み易かった」「素敵だった」ととても好意的に受け入れてくださったから、方向性は間違っていなかったのだろう。だが、伽鹿は未だに他の本で同じ事を起こせていない。
 ただただ、伽鹿がもっとダイレクトに必要な人に届けられないからだ。
 本の形をしている以上、本である時点で手に取られないことを、どうやって覆すのか。
 
 夢物語ばかり語っている、という人はいるだろう。言われても仕方ない、とも思う。
 けれど、文藝誌「片隅」を経て、ごく平明で普遍的で上質な翻訳書を、そこから先を、順に読み続けることで出来る「本の島」を、誰もが武器を手にして、自分の言葉で語り、抵抗することの出来る社会を、実現することはきっと未来を良くするはずだ。
 冒頭の、印税の下がりすぎ問題だって大問題だ。伽鹿の最終目標は、翻訳は1割、日本語の作家なら、もう少し頑張って一割強の印税なのである。野望かもしれないが、本当はそれだけの価値があることの筈だ。何故ならこれは生きるための武器なのだから。
 
 三巡目をどうするのか。
 考えあぐねている。何もよい知恵はない。もしかしたら、数年の沈黙期間を設けることになるのかもしれない。
 目論見と夢物語を現実にするために、ただひたすら考える。他に、出来ることなど今はない。下り道を行こう。いつか、登り道に変わるまで。
 
※と、かっこよく締めたいところだがそこは伽鹿なので蛇足を少々。
※スポンサーもアドバイザーもいつでも求めております。切実に、求めております!!
※しょうがないなー、年間五百万でいいの? あげるからやってみな! とかいう太っ腹な篤志家は特に求めております。お客様の中にアラブの石油王はいらっしゃいませんかー!
※今後の予定された本を期待してくださる方は、ぜひ、周囲にもおすすめください。こういう頭の悪い出版社があるんだけど、馬鹿だから助けてやんないと、などとご勧誘いただけますと助かります。勧誘された方はぜひとも更なる勧誘を!(ネズミ講ではありません)(ネズミ講と違いまして、伽鹿の本が手に入る以外の何も起きませんが、未来が良くなるかもしれません。理論上はよくなります!)

隅っこが好きな人間が『片隅』から

第1回/世界の中で僕たちができること

 
 この国の「片隅」まで本が届く仕組みを作ろう。そのためには業界の「真ん中」に行って根本から変えなくては……。
 そう決意して「真ん中」に飛び込んだ僕は、気がついたら「片隅」に追いやられていた。
 ここはどこだ?
 確かに目に映る世界に変化はない……月もひとつだし。やれやれ。そんなことを考えながら僕は手早くスクランブルエッグを作り、TVのリモコンに手を伸ば……
 
 おっと。月がふたつある世界に入り込むところでした。
 
 伽鹿舎及び『片隅』ファンの皆さま。はじめまして。関口竜平(りょうへい)と申します。
 ひょんなことから本の世界に迷い込み、さらにひょんなことから「片隅」の世界に迷い込むことになりました。以後、お見知り置きを。
 
 僕は小さい頃から隅が好きでした。端っこの席、部屋の隅っこ、そして「みんなと同じことをしたくない」というアウトロー精神(それをひとは捻くれ者という)。
 そんな僕が珍しく、出版業界の「真ん中」に行こうと決意したのは1年とちょっと前。
 時を同じくして、日本の「片隅」から日本の「ど真ん中」東京に侵略を試みていた伽鹿舎に出会いました(出会いの場は《九州領》H.A.Bookstoreにて、僕が偶々店主に代わって店番をしていたときでした)。
 そしてそんな運命的(宿命的?) な出会いのせいでしょうか、どうやら風向きが変わってしまったようです。いや別にですね、伽鹿舎のせいと言いたいわけではないんですけどね、やっぱり圧倒的な引力みたいなものがあると思うんですよ。
 そんなわけで前述のとおり、またしても「隅っこ」に行くことになってしまったのでした。
 何を言ってるのかよくわからない? すみません、村上春樹がいうにはメタファーとアイロニーだということなので(やれやれ、と思いながら読んでくださいね)。
 とにかくこのままでは本の仕事ができないではないか。出版業界をなんとかしたいというこの気持ちのやり場はどこに? そんな感じで悶々としていた僕に救いの手を差し伸べてくれたのは、やはり「片隅」からやってきたアウトローでした。
 そうです、新刊発行の度に「頭がおかしい」「意味がわからない」などと各方面から大絶賛を受ける伽鹿舎です。
 僕はこのとき、「類は友を呼ぶ」という諺を信じることを決めました(「お前もこっちの仲間だろ? 正攻法なんて似合わないんだよ。端っこから真ん中に目に物見せたい人間だろ?」という九州からの声が、いまならはっきり聞こえます。目が覚めました……)。【※編集部注:そんなこと言ってません!】
 
 ということで、隅っこが好きな人間が『片隅』から、本のことや出版業界のこと、本にまつわる(ふりをした) 雑多なあれこれを、これからお送りいたします。
 どうか、部屋の隅っこや電車の端っこでお読みください。そしてどうか、末長く細々とお付き合いくださいますように。
 
 前置きが長くなりましたが、初回のテーマは僕にとっての「片隅」の意味についてです。
 僕は修論でG・オーウェルの『1984年』といういわゆるディストピアものを扱いました。
 ディストピアというのは簡単にいえば、終末的な世界だったり圧倒的な格差社会といった「こんなところには住みたくねーよ!」と確実に思う世界のことなのですが、ここで作品の設定などを説明すると熊本どころかロンドンあたりまで飛行機で行けてしまうくらいの時間がかかるので割愛します。
 そんなディストピアものと格闘している最中に出会ったのがこうの史代さんの『この世界の片隅に』でした。
 不肖なことに映画を見るまでその存在を知らなかったのですが、その圧倒的な作品の質に度肝を抜かれ鑑賞後すぐに原作本とそのほか関連本を一気読みしました。そしてこれはひとつの論文にしなくてはならない、と修論も終わっていないのに決意したのでした。
 意外なことにこの両作品には「過去」「記憶」というテーマが共通していました。そのことについて書いたちょっとした書き物から、ここではエッセンスを抽出し「片隅」の意味と絡めながら皆さまにお届けしたいと思います。
 
 端的に言ってしまえば、両作品の違いは「過去」「記憶」を守ったか放棄したかという点に尽きます。そしてそれが作品の結末にも違いを生み出しています。
 映画や原作に触れた方が多いであろう『この世界の片隅に』から話を進めていきますが、こちらは「守った」方です。そしてその結末は、(もちろん悲しみはあれど) 未来への希望を感じさせるものとなっています。詳細は省きますが、主人公すずは物語の終盤でこのような思いに至ります。

生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居って ものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある うちはその記憶の器として この世界に在り続けるしかないんですよね

 すずは「記憶の器」としての自らの存在意義を意識するようになります。
 その記憶の中には、目の前で(自らの右手とともに) 失った姪っ子の晴美や同じく空襲で失った遊女のリンを筆頭に、まさに「悲しくてやりきれない」ものが多く含まれているのでしょう。それでもすずは、それらを守ることを決意します。その結果、物語の最後に生まれる希望の場面は涙なしには語れません(いまサントラを流しながらこれを書いているので、以降誤字脱字が生じてしまってもお許しください)。
 「過去」「記憶」は想像力を、そしてその先にある共感を生み出します(このことはユリイカ(こうの史代特集) に詳しいので、興味のある方は読んで頂ければ幸いです)。
 すずと戦災孤児との出会いは、まさにそれが結実したものといえるでしょう。ふたりはお互いに、「過去の記憶」を大切に守っていました。それらは同じ記憶ではないけれど、すずは戦災孤児と晴美を、戦災孤児はすずと母親を、それぞれ重ね合わせたことでともに歩む道を選ぶのです(挿入される右手の描写がもうそれはそれは大変感情を揺さぶります、あぁ……画面がぼやける……)。
 
 さて、『1984年』ではどうでしょうか。そこはビッグ・ブラザーの支配する一党独裁政権により「過去が常に改変・抹消されている」世界です。
 そんな世界に抵抗を試みた主人公ウィンストンは、自らの信じる過去を残すために日記をつけることから始めます。
 しかし結局、恋人であり同志でもあるジュリアとともに思考警察に捕まり、ビッグ・ブラザーを愛するように改宗させられます。
 その結果、彼は自身の内に守り続けていた記憶を放棄し、党の要求する事実を真実のものと認識する人間になってしまいます。彼は2+2=5であると信じることができるのです(これは誤字ではありませんよ)。
 過去を捨てたウィンストンは、物語の最後にジュリアと再会するも、もはやかつてのように愛することはできません。それはジュリアも同様です。彼らはお互いを裏切ってしまったのです(詳細はぜひ小説を一読ください)。
 つまり「過去」「記憶」を放棄した者には、ともに歩む道は提示されません。
 
 残念ながら僕たちが生きる現実の世界も、さながら『1984年』のような状態になってしまっています。
 思考警察は共謀罪に、二重思考はalternative factsに、過去の改変・抹消は秘密保護法や国の主の言動に、それぞれ現実化しているようにしか思えません。
 昨年大統領が代わったかの大国では、危機感からか『1984年』がベストセラーになったそうです(日本でもそうなると嬉しいのですが……)。
 そんな世界の中で僕たちができることは、たとえノートの片隅にだろうと、世界の片隅からだろうと、何かを記し、あるいは発信していくことではないでしょうか。その蓄積はいつしか大切な「過去」そして「記憶」となり、未来の人々が想いを馳せ、共感し、学びを得るものとなるのでしょう。
 過去そして記憶から僕たちが断絶されたとき、「彼ら」は歴史を繰り返します。しかし僕たちは、「繰り返されている」ことに気づかない。
 そんな世界を生み出さないために、「片隅」は存在するのでしょう。
 追いやられた「片隅」。忘れ去られた「片隅」。
 だからこそそこには、価値がある。強さがある。
 この世界のどこかにひとつでも「片隅」があれば、僕たちはそこから、何度でもやり直すことができる。
 日本の片隅から、出版業界の片隅から、ノートの片隅から、心の片隅から、愛をこめて。

 それではまた、いつかどこかで。
  
(つづく)

 

【今回の本】
  

【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第9回

九州限定の出版社、ついに限定解除する
 
 
 
 大方の予想通りにというか、察しがついておられるに違いないというか、まったく更新しないまま随分と時が過ぎて、何をしていたかと言ったら金策だったりイベントだったり金策だったりし、今のところ最初と最後についてはなんと解決を見ていない。なんてこった。
 だが、話題の一冊『バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)』を読んだせいか、頑張っていれば土壇場でどうにかなるんじゃないか、と変な(?) 勇気をいただいたりしたので落ち込んだりもしたけれど、今日も伽鹿舎は元気です。
 この本、本当に傑作である。未読の人は人生の優雅で無駄で楽しい部分を何パーセントか損しているので是非どうぞ。
 
 などと全力で他社の本の宣伝をしている場合ではなく、そんな日々の間に伽鹿舎の本はと言えば初の「全国解禁」が決まった。『幸福はどこにある』である。
 当舎の本は「九州限定」で、しかし初版が完売したら、増刷分からは全国の書店で取り扱いを解禁しよう、というのがその主旨だ。
 もともと何度も何度も書くようにギリギリでマイナスの運営をしているから、広告宣伝費がない。知名度がないと本が知られず、知られないと売れないのでますますジリ貧である。困る。
 宣伝するより、じゃあいっそ本を全国にばらまけばいいというのが率直な話で、そしたら幾許かのお金になるわけだし、という魂胆のこんな無茶苦茶を実現させてくれたのはやっぱりH.A.Bookstoreを運営している松井さんだったりした。
 前回、ひなた文庫さんとの提携の話を書いた。
 そんな妙な事を「いや面白いです」と実現させてくれるくらいだから、松井さんだって十二分に変なわけで、そんな松井さんは取次としての役割も仕事として持っているのだから、相談しない手はなかった。
 一種類ずつ、増刷になる都度、九州限定を解除して全国解禁したい。
 どう考えてもむちゃくちゃである。そんなこと出来るのか。
 松井さんはあっさり「いいですよ、うちでやりましょう」と言った。「うん、面白いし」
 この人達は一体全体、大丈夫なんだろうか、ときっと松井さんに思われている伽鹿舎一同が、松井さんの事をちょっとだけ、この人は大丈夫じゃないのではと不安になったのはさておき、とりあえず実現できそうとなったら全力で寄り掛かる事を即決して、お願いしますと告げた。
 元より松井さんのファンになったとうっとりしていた弊舎の松本は「松井さんカッコいい」が殆ど口癖のようになっている。松井さんカッコいい。
 ともあれ、大手取次であるトーハンさんや日販さんに、そのままでは伽鹿舎の本は渡らない。何しろ取引がない(というより門前払いだった) から出版社コードだって持っていない。だが、HAB経由八木書店廻り大手取次行、というローカル線に乗せて貰えることになった。八木書店さんも八木書店さんで大丈夫なのか知らないが本当に熱心にお声掛けくださった。ありがたくて足を向けて寝られないのだが、何しろ全方位そればかりなのでご容赦いただくことにして。
 それにしても、なんだそれは。
 チンチン電車がどうしてか地下鉄乗り入れしていつの間にか更にJR直通になっていたので着いた駅はJRのターミナル駅でしたみたいな事になってるぞ。世の中の仕組みってよくわからない! さっぱりわからないがありがたい!
 そんなわけで、当舎の最初の本『幸福はどこにある』は大手取次でも注文できる本になった。ようやく「普通の本」になったわけだ。全国どこの書店でも取り扱える(取り扱ってくれるかは別問題にせよ) ごくごく普通の本だ。
 ええ、そうなんです。これを読んで「マジで?」と思った書店員さんは、今すぐ発注書をお書きください是非によろしくお願いしますペンがなければ指を切ればいいじゃない!
 
 ちなみに、この連載ではまだ最初の片隅すら刊行するに至っていないのに、月日は飛ぶように流れて既に片隅は4度も出て二巡し、間で出したQUINOAZも、「幸福はどこにある」「抄訳アフリカの印象」に続いて「世界のすべての朝は」が出た。
 「抄訳アフリカの印象」は白水社さんの「ふらんす」という素敵な雑誌で書評をいただいたし、「世界のすべての朝は」は豊崎由美先生のお蔭で3誌に書評が掲載され、更には図書新聞さんでも応援の書評をいただいた。
 正直、九州でしか売っていない本の書評が全国区の雑誌に載っている、という状況自体がとても面白くて、けっこうにやにやしてしまうわけだが、にやにやしてても売れるわけではないのでもっと知っていただく必要がある。
 だいたいこれを読んでいる人は伽鹿舎を知っているから読んでいるのだろうし、しかし読んでるから知ってるからって本を買うかは別問題だ。
 そこが大問題なのである。
 本は嗜好品でもあるから、どうやったって必ず買うものではない。
 ないのだが、伽鹿舎からQUINOAZで出たからには「いい」のだし、よしんば内容が良くてもガワが低レベル、かもしれないのは目をつぶっていただいて、出来たら伽鹿舎じゃないと出せないかもしれない未来の本の為に是非ともお買い求めいただきたい切実に。
 なぜ自舎の本なのに「いい」と断言できるかと言ったら、「ご縁があったら出す」方式のお蔭で、「すごく良いのに出ないんだ」「すごく良いのに絶版なんだ!」という声と共にQUINOAZ刊行作品がやってくるからだ。
 自分たちの目はちょっぴり信じられなくたって信じられる人の目は信じられる。当たり前である。
 だから声を大にして言うのだ。伽鹿の本は良い。ガワが駄目だとしても、絶対に読んで損はしないと。
 
 もちろん、ガワだって良くする努力はしている。
 二年の間にたくさん学ばせて貰ったし、現在進行形で学んでいる。ありがたいことに「ここがおかしい」と教えてくださる読者さまもたくさんいらっしゃる。全く期待していなければそれはしないはず、とポジティブに捉えてありがたく取り入れさせていただいている。
 もっと言えば「抄訳アフリカの印象」なんて各方面の名だたるフランス文学者の先生方に絶賛いただいて、そんなにすごい本だったのかと驚いている始末だ。高遠弘美先生にも、中条省平先生にも、「これは凄い仕事」と言っていただいた。訳した國分俊宏先生が全面的に凄いだけなのだが、出そうと決めた弊舎もちょっとくらいは凄いに違いない(無謀という意味で)。
 あまり出ないかもしれないという不安と、新訳していただく労力に見合わない低額の印税を少しでもマシにしようと、初版はほかのQUINOAZよりほぼ倍に増やして刷った。だから他の本が「重版」が条件である全国解禁を、この本に限って「半分売れたら」に設定している。
 のだが、なんと実はあと四二冊売れれば解禁出来るのだった。
 アフリカなんて行った事もないフランス人が言葉遊びだけで作り上げた架空の奇天烈な世界を、坂口恭平さんのユーモラスでカッコいいドローイングに並べて読み易く翻訳していただいた。おまけにフランス語の原文まで載っている。誰が読めるんだと言われる前に言うと舎員だって誰も読めない。
 でもこんな本はきっとほかにないのだ。手にとって、眺めてほしい。翻訳と並んだ恭平さんの絵は、海岸で巨大女がビームを吐いていたりしてもはや何がなんだか謎だらけだし、そこにつましく並んだ原文は妙に端正で、このギャップだけでも十全に面白い事を保証する。
 
 と、珍しくしこたま自舎の本をお勧めしたところで、なるはやで時系列を戻して現時点に追いつくべく、次回から筆を進めようと思う。
 もう、二年近くが過ぎた。
 まだ、二年すら過ぎていない。
 伽鹿舎には素人しかいないまま走り出してしまった。素人は、いつから素人でなくなるのだろう。
 それでも、いつになっても謙虚に本を作りたい。
 作らせていただいているのだ、と思って作りたい。
 あれこれ懸案事項は山積みで、頻繁に気が遠くなったりもするけれど。
 伽鹿舎は伽鹿舎の道を走るしかない。最初から、そうだったのだから。
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 

 
 
 

幸福、あります!!!――『幸福はどこにある』全国解禁!

九州限定で再登場したしあわせ探しの決定版がついに全国解禁!
 
映画『しあわせはどこにある』原作小説再登場! 12月23日、九州限定配本
 そう銘打ってこの本が出たのは2015年のクリスマスのことでした。
 あれから一年と半年。
 たっくさんのお声をいただいて、ついに全国の書店さんでの販売解禁決定です!!
 

 もちろん。
 伽鹿舎の本は九州限定。
 その原則はこれからもかわりません。
 全国での販売解禁に、ルールをつくりました。
 
 

*解禁できる本は「単著」のみ
 ⇒これからも、『片隅』は九州限定です。
 
  *解禁は「重版」になってから
 ⇒初版が完売するまで、伽鹿舎の本は九州限定。早く解禁になってみんなにお勧めしたい! と思ってくださる方は、これからも「九州で」お求めください!
 もしかしたら、重版にならないかもしれません。もしかしたら、うーーんと早く重版全国解禁になるかもしれません。九州の本屋さんでしっかり手にとってもらえた本たちだけが、全国に飛び立ちます。
 ちょっぴりわくわくしませんか? 応援している本を、送り出したくなっちゃいませんか?
 今までも、これからも、伽鹿舎は九州の本屋さんと共にがんばります!

 さあ、「幸福はどこにある」は飛び立ちます。
 たくさんの本屋さんで、「あ、この本いいんだよ」そんな風に、お声がけいただけたら嬉しいです。是非、探してやってください。
 そうして、新しい誰かと一緒にヘクトール先生が旅をするのを後押ししてください!
 
■わが町の本屋さんで購入したい! と思ってくださったら
・書店さんで「この本が欲しいです!」とお申し込みください。
 できれば以下のISBN番号をメモしていくか、この画面をご提示くださいね!
 

幸福はどこにある──Le Voyage d’ Hector
 


「きみは、しあわせかい?」
自分に満足していない精神科医ヘクトールは、患者を幸福にしてやれないと悩んでいた。
はっきりした不幸の原因もないのに不幸だと感じてやってくる患者が多すぎる!
疲れてしまった彼は、ある日旅に出ようと決心する。
世界各地をめぐって、そこに住む人が幸福についてどう考えているのかを尋ね歩き、
幸福のレッスンを発見して手帳に書きつけようというのだ。
 
──集まった幸福のレッスンは全部で二十三。
迷えるおとなのためにフランスから届いたエスプリたっぷりの現代寓話。


 
フランソワ・ルロール著 高橋啓訳
ISBN:978-4-908543-02-9
ライブラリー版サイズ(160mm×110mm) 240頁
定価:税込み千円
取扱:九州(原則)熊本ネット TEL:096-370-0771 FAX:096-370-0348
   全国(取次流通対応予定:返品要了解)H.A.Bookstore FAX: 03-5303-9495 詳細はこちら
   ※H.A.Bookstore取扱分についての発送は6月上旬を予定しています。

■書店の皆様へ
 「はじめての海外文学」フェアなどで、お声掛けくださって本当にありがとうございました。
 ぜひ、これからも、今度はみなさまの店舗で、並べていただけましたら光栄です。お待ちしております!

片隅から大空へ――『片隅04』をお届けします

どんな鳥だって想像力より高く飛ぶことはできないと書いたひとがいます。片隅から大空へ、宇宙へ――
 
 ※通販については、ページ後半をご覧ください。
 
01_katasumi04
 
 手渡すようにお届けしたい。
 そればかりを願って作ってきた「片隅」も4冊目になりました。
 熊本に縁のあったひとりの女性作家の作品を、今回は中心に据えました。
 ただただ、好きだった宇宙を見上げて生きたひとの、その言葉からひびくものを伝えたいと願います。
 今回も、素晴らしい作品が集まりました。
 あなたのお手元に、ひろいひろい世界の片隅から片隅へ届く何かがありますように。

書籍『片隅』
2017年4月23日刊行
A5変形・フルカラーカバー・本文144頁
定価:税込1,000円
九州限定 ISBN 978-4-908543-07-4
取扱取次:熊本ネット

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4-mokuji

 

■九州外への通販受付書店(詳細は各店舗にご確認ください)
*天野屋書店(熊本) 096-352-7874 :郵便振替、代金引換又は銀行振込 電話、FAX(096-351-1628)及び電子メール(amanoya@kosho.ne.jp)の何れでも可
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 福岡本店 092-434-3100 営業時間:10:00~21:00
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 お好きな対応店様でお申し込みください! あなたの「なじみの本屋さん」が九州に出来ますように!
■東京限定 南阿蘇の「ひなた文庫」からの取り寄せができます!
*H.A.Bookstor(蔵前) 休日のみ開店 :取寄せ対応 詳細伽鹿舎×ひなた文庫×H.A.B
*双子のライオン堂(赤坂) 水・木・金・土:15:00~21:00 :取寄せ対応 
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*tsugubooks(清澄白河) :取寄せ対応 詳細tsugubooks 
 
※九州外の方への通販を行うことが出来る書店さん、見本誌を置きたいという全国の書店さんは是非当舎にお知らせください。
 katasumi*kaji-ka.jp まで(*を@に変えて送付してください)

 

『虐殺器官』の伊藤計劃が愛した作家パスカル・キニャールの世界

「きみは踊り手の動きを助けることはできるだろう。舞台の上で歌う役者の伴奏をつとめることもできるだろう。それで食っていけるだろう。音楽にかこまれて暮らせるだろうが、音楽家にはなれない。
 きみには感じるための心があるか? 考えるための頭があるか? 音というものが舞踏のためでもなく、王の耳を楽しませるものでもないとしたら、何の役に立つか、きみは考えたことがあるか?」

 
 ※通販については、ページ後半をご覧ください。
 
 
25年前、本邦初のパスカル・キニャール作品が高橋啓の翻訳によって登場。
以来、キニャールの翻訳をライフ・ワークと位置付けた翻訳家が、この美しい物語を渾身の力で再翻訳しました。

 
 

「きみは宮中で暮らし、王に気に入られるようなメロディを弾いてやるわけだ。私に言わせれば、百室もある石造りの宮殿で演奏しようが、桑の木の中で揺れる小屋で演奏しようが、どうでもいいことなのだ。私には、芸術や指や耳や創意などよりずっと大切なものがある。それは、情熱にかられたこの私の人生だ」
「あなたが情熱にかられた人生を生きているというのですか?」
「お父さまが情熱にかられた人生を送っているというのですか?」
 マドレーヌとマランは同時にしゃべり、同時に老いた音楽家をまじまじと見つめた。
「いいかね、きみは目に見える王を楽しませる。人を楽しませることは私の柄ではない。私は呼びかけているのだ、そう、この手でなにか見えないものに向かって呼びかけているのだ」
「謎かけのようですね。それでは何をおっしゃりたいのか、さっぱりわかりません」
「だからこそ、草と石ころだらけのこの貧しい私の道にきみが同行してくれるとは期待しなかったのだ。私は墓に仕えているのだ。きみは器用な曲を作り、そこに私から盗んだ指使いや装飾音を巧みに付け加えるがいい。だが、そんなものは紙に書かれた黒と白の音符にすぎない!」

 
芸術とは誰の為にあるのか。
死者に届く音楽は何を老音楽家にもたらすのか。
 
 

 ある日、ヴィオルを演奏しているときのことだった。男は傍らに亡き妻を感じる。感じるだけではない。その姿をありありと見る。

旋律が高まると、戸口の付近にひどく青ざめた女が現れ、彼にほほえみかけると同時に口もとに指を当て、自分は話をするつもりはないから、今していることを中断するなという仕草をしてみせた。その女は黙ってサント・コロンブ氏の譜面台の前に回りこんだ。そして、隅に置いてある楽器ケースの上に腰かけると、テーブルと葡萄酒瓶を前にして、演奏に耳を傾けた。

 ここで生者と死者とをつないでいるのは言語ではない。それはコトバとなった旋律だ。コトバは言語的領域の彼方で働く。さらにいえば人が言語によって何かを語るのを止めたところから語り始める。死者は、生者である男に「話をするつもりはない」と身振りで伝える。死者は音を聞くのではない。音の底にたゆたう、そうした生の響きに無形のコトバを読む。
<解説より 若松英輔>

 

語られる、受け取り手のない、快楽(精液、涙) の噴出。サント・コロンブの娘で悲劇に見舞われるマドレーヌが、マラン・マレと愛を交わし(=噴出された精液を受け止め) た後に「彼女の父親が世にも美しい曲を作り、それを誰にも聞かせようとしないこと」も打ち明けていた事実を思い出そう。そのなかにあった曲が、まさしく「涙」と題されていた。
<解説より 岡和田晃>

 
狂おしいばかりの妻への愛と、崇高なまでの『音楽』への道。
若き弟子との間にあったもの、弟子のもたらした娘たちへの激しい翻弄。
キニャールのペンが紡ぐささやかで細やかな、雑駁で時に卑小で、しかしどこまでも美しいディティールが物語を彩ります。
珠玉の物語を、どうぞご堪能ください。
 
 

『世界のすべての朝は』TQ collectio
cover12017年3月23日刊行
パスカル・キニャール著 高橋啓訳(早川書房「めぐり逢う朝」改題・再翻訳)
装画 手嶋勇気
解説 若松英輔「祈りを奏でる」
解説 岡和田晃「言語という根本衝動、音楽という犠牲――パスカル・キニャールを読む伊藤計劃」
いつもの持ち歩ける小さなライブラリー、QUINOAZを、著者キニャールの希望を最大限尊重し、作品と解説を明確に区分して製本しました。
解説は特装版の省略版を収録
ライブラリー版サイズ(160mm×110mm) 212頁
定価:税込み千円
九州限定 ISBN:978-4-908543-07-4
取扱取次:熊本ネット

■「伽鹿舎の高橋啓訳パスカル・キニャール」シリーズ『TQ collectio』1冊目として特装版をご用意しました。

cover2
・小説
仮フランス装/約150頁/四六版上製
・コメンタリーブック
訳者あとがき・解説及び若松英輔・岡和田晃の解説、手嶋勇気のドローイング(フルカラー)を収録
並製/約50頁/四六版横
・ケース
専用プラスティックケース
★価格 税込4千円+送料手数料500円
※通常のQUINOAZ版とセットでお申し込みの場合は2冊税込5千円+送料手数料500円となります。
※鹿オーナーのみなさまにおかれましては、通常版を送付いたしますので、特装版をご希望の場合は別途お申し込みください。(鹿オーナー棗のオーナー様には特装版セットを送付します)
 
※限定500部、原則としてすべて伽鹿舎から購入者への直送となります。
 熊本地震復興の願いを篭め、未だ道路が寸断された中、奮闘している南阿蘇への応援として「ひなた文庫」では店頭取扱をいたします。
  ⇒ひなた文庫からの取寄せを扱う東京蔵前「H.A.Bookstore」並びに赤坂「双子のライオン堂」での予約が可能です。
 また、同じく湯布院の「ゆふいん文学の森」でも店頭取扱を致します。太宰ゆかりの建物です。是非お運びください。
 詳しくは各店舗にお問い合わせください。

 

■お詫びと訂正
 通常のQUINOAZ初版について、中扉の仏文タイトル、ガリマール社のサイトアドレスに誤りがありました。
 それぞれ正しくは「Tous les matins du monde」 並びに 「www.gallimard.fr」となります。
 伏してお詫び申し上げます。
 ほか、数点の誤植がございました。重版分からすべて修正いたします。

 

 

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決済確認後一週間~10日程度の発送となります。
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※領収書等の発行はいたしておりません。悪しからずご了承ください。
※システムからの自動返信メールのみでご連絡しております。発送時には別途発送通知をしておりますのでご確認ください。
 
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※別窓が開きます。こちらは銀行振込のみとなっておりますのでご注意ください。
「セット版」「通常版」「特装版」がございます。両方欲しい方は「セット版」をお選びください。

熊本地震をこえたわたしたちが送り出す、最初の文藝誌『片隅03』

『片隅』からすべてのひとへ――。
 
 
katasumi03
obi02

  ある日 卒然と悟らされる
  もしかしたら たぶんそう
  沢山のやさしい手が添えられたのだ
 
  一人で処理してきたと思っている
  わたくしの幾つかの結節点にも
  今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで
  〈茨木のり子「知命」〉

 たくさんの方に応援していただいて、伽鹿舎の出版は二年目になります。
 「ことば」に触れる楽しさを、「ことば」が持つ力に触れることを、なにより大事に詰め込んできた『片隅』。
 昨年はじめて送り出した『片隅』の一年の節目となる03は、若松英輔さんに「言葉の護符」を授けていただいてつくりあげました。
 あなたの『糧』になりますように。
 今回もそっと、手渡すようにお届けしたいと願っています。

 

書籍『片隅』
2016年10月23日刊行
A5変形・フルカラーカバー・本文144頁
定価:税込1,000円
九州限定 ISBN 978-4-908543-05-0
取扱取次:熊本ネット

desika5

 

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【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第8回

最初の『本』
 
 
 
 今月、ようやくレーモン・ルーセルの「抄訳アフリカの印象」が発売された。公称の発売日は伽鹿舎の場合は常に[tcy]23[/tcy]日なのだが、そこは流通の都合もあって、書店の店頭に並ぶ時期はけっこうバラバラになる。
 お盆を利用して、南阿蘇村のひなた文庫さんと、刊行記念にこの本のカバーを自分で巻き、帯を描こう! というイベントをさせていただいたから、トップバッターでこの本を店頭に出したのは南阿蘇村と、熊本市の天野屋書店さんだった。
 画期的ではないだろうか。普通なら一番最後に、それも入るか入らないかわからない南阿蘇村に(というかそもそもこの村には図書館も本屋もなかったのだけれど)、どこより早く本が並んだのだ。『片隅』と言ったら本当に片隅の小さな村で、村の人たちはみんな笑顔でこの本のカバーを巻いてくれた。
 子どもたちが大喜びで帯を描いてくれて、その両親が必死でカバーを巻く、という面白い図が出来上がった。何枚も帯を描くものだから、親はその分だけカバー巻きをしなければならない。ひとりで3冊も4冊も巻いてくれた方もいる。
 ここで完成した本は、すべてひなた文庫が販売する。
 ちょうど、東京のH.A.Bookstoreさんと双子のライオン堂さんのタッグと、ひなた文庫が提携したばかりだ。東京のHABまたは双子のライオン堂で伽鹿舎の本を注文すると、ひなた文庫から納品されて、それはひなた文庫の売り上げになる。HABと双子のライオン堂とひなた文庫は仲良く手数料をわけあう、という、ちょっとアナログな提携を、みんな面白がって「やります!」と言ってくださった。九州限定の本だから、あくまで九州に買いに来ていただきたいけれど、難しいのなら、九州の本屋から東京の本屋を通じて手にして貰おう、そうして九州の本屋に親しみを持ってもらおう、あわよくばいずれ来て貰おう、と、そういう理屈でこの妙な提携は成り立っている。
 つまり、今HABか双子のライオン堂のどちらかで「抄訳 アフリカの印象」を注文すると、南阿蘇村のみんなががんばってカバーを巻き、子供たちが帯を描いた、そんな本が届くのだった。
 ぜひ、この取り組みがもっとたくさんの書店さん同士で広まって行けばいい、と思っている。
  
 さて、前回までを読み返していただけば分かるとおり、この本の発行まではとてつもなく紆余曲折があった。
 少なくとも、遡ること一年くらい前にはレーモン・ルーセルの「アフリカの印象」を抄訳で新訳、という無茶はなんとか実現する目途がついていた。
 坂口恭平さんに出せそうです! と言うと、坂口さんはとても喜んでくださったし、いとうせいこうさんが「それなら解説をやりたい!」と言ってもくださった。これは凄い事だ。絶対に良い本になる、とこの時点でもう確信があった。
 が、肝心の絵が「どこにあるかわからないから、もう少し待って」と坂口さんが言う。
 絵がないと始まらないうえに、新訳となれば訳す時間が必要になる。そういうことなら、ともあれ一年後に出すことを目指そう、と決めた。
 それまでに、まずはそもそも伽鹿舎は本当に本を作って流通させられるのか、試さなければならない。いきなり坂口さんの本を出してコケたのでは目も当てられないではないか。
 
 ちょうどそのころ、いわゆる同人誌、自分たちで自費出版した本の即売会である「文学フリマ」の福岡版が開催されると決まっていた。
 初めての九州での開催である。出来るだけ応援したかったし、面白そうなので覗いてもみたかった。
 すてきな新人さんと出会えるかもしれないし、伽鹿舎の存在を知ってもらうにもとても良い。
 福岡の出版社、書肆侃侃房さんが参加されるとも聞いた。だったら参加しない手はない。
 文学フリマ福岡の代表さんから連絡を貰い、せっかくやるなら福岡は[tcy]10[/tcy]年も続くブックイベント「ブックオカ」があるのだから、その行事の一環に文学フリマも入れて貰った方がいい、と提案して、ブックオカに紹介もした。なにしろブックオカは福岡の素敵な書店ブックスキューブリックの大井さんと、とてもいい本を出している一人出版社、忘羊社の藤村さんの二人が始めたのだ。
 伽鹿舎は、このお二方にはとてもお世話になっている。なっているというか、一方的にお世話になりに押し掛けた。出版のことなどさっぱりわからないから、大分の書店員さんに紹介していただいて藤村さんに弟子入り志願し、藤村さん経由で大井さんを紹介していただいたのだ。
「なんかいつの間にか巻き込まれたんだよね」
 そうぼやく大井さんは、けれど伽鹿舎の本をものすごく売ってくださっている。藤村さんはそれを横からとても面白がっていて、伽鹿舎が「金がない!」と叫んでいるとにやにやするのだった。
「そうでしょ? 資金繰り大変でしょ、あはは」
 
 すでに6月だった。文学フリマ福岡は[tcy]10[/tcy]月だ。
 たった4ヶ月で、何をつくれるか、と考えて、ともあれ伽鹿舎を知ってもらうには文藝誌だろう、と最初から思っていた。
 WEB文藝誌から始まったのなら、最初の本は文藝誌がいい。
 特に、新人さんが世に出る場を作りたい、というならなおさらだ。文藝誌ならたくさんの方の作品が載せられるし、作り方によっては、今まで本なんて読んだことがない人だって手に取ってくれる可能性がつくれる。
 そう、可能性が「ある」のではなく、「つくれる」と伽鹿舎では考えたのだった。

 では、『文藝誌』とはなんだろう。
 雑誌だろうか。小説が載っている雑誌?
 文藝とは、そんなに狭い範疇のものだろうか。文で出来上がった豊かな土壌。それが文藝だとするなら、詩も短歌もエッセイも評論も、誰かの作文だって、文藝には違いなかった。
 ぜんぶ、載せたいと思った。できるかぎりの、全部を。
 今、話題になっている朝の連続ドラマのモデルになった『暮らしの手帖』で、かつて編集者の花森氏はこう書いた。
 

 いったい、すぐれた文章とは、なんだろうか。

 彼が目の前にしていたのは、無数の「はじめて文章を書いたのでは」と思わせるひとびとの、切実なまでの「書き残したい」という情熱だった。
 文章の体をなしていない、とさえ思うそれらの投稿を、彼は「ぜんぶ活字にしたい」とそう書いた。
 現在、すぐれていると判断される「文芸」はいくらもある。溢れるほどに、ある。
 だが、それらを好み、貪るように読むひとたちが見向きもしないものに、ひそんでいるものはないのだろうか。あふれ出して零れ落ちてしまったものに、価値はないのだろうか。
 「すぐれている」と誰もが思うものは、中央の出版社が活字にするだろう。
 それを『片隅』がやる理由はあまりない。
 ならばここに、何を載せたらいいだろう。この本は、誰に読まれるのがいいのだろう。
 
 もう、決めていることがあった。
 『片隅』は、「本好き」が飛びつく本である必要はない――否、それどころか、その反対でさえあっていいのだと。

(つづく)

坂口恭平さんの絵で読む「抄訳 アフリカの印象(レーモン・ルーセル)」が新訳で登場!!!

 ※九州外のみなさまからのお求めについては、ページ後半をご覧ください。
 
00_quinoazフランス文学の古典、難解で摩訶不思議な小説「アフリカの印象」を抄訳で刊行します!
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 

1 Les lettres du blanc sur les bandes du vieux billard.
2 Les lettres du blanc sur les bandes du vieux pillard.
 1の文と2の文は末尾の単語の頭一文字以外、すべて同一である。にもかかわらず、そのたった一文字によって「古い玉突き台のクッションに書かれたチョークの文字」から「老いた盗賊の一味について書かれた白人の手紙」へと意味を変えてしまう。ルーセルはこの奇妙な言葉遊びを絶対的な真理か何かのように扱い、まず『黒人の中で』という短編を書いた。1の文で始まり、2の文で終わるというのがその短編の仕掛けである。
『アフリカの印象』はその十年後に書かれた傑作だ――
 
いとうせいこう(作家・社会編集者)〈解説より引用〉

 
 そう、アフリカの印象は、全編に渡って執拗なまでに、このような「言葉遊び」に基づいて書かれた長編なのです。
 しかも、原文のフランス語は、あえて機械的な無機質で難解な言い回しが多用されています。ルーセルを「難しい!」と感じる要素はそのあたりにありそうです。
 
 そこで!
 今回は、國分俊宏先生にお願いして、この「アフリカの印象」をやや平明に、あるいは少し躍動感を感じられるように、読み易く訳していただきました。
 國分先生は光文社古典新訳文庫さんでゾラの「オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家」を翻訳するなど、とても素敵な翻訳をされます。
 (余談ですが、このゾラの短編集、思わず笑いだしてしまうくらい面白いので是非ご一読を。「ある土曜日の朝六時、僕は死んだ。」で始まり、死んでいないのに死んだと思われて墓にいれられてしまった「僕」の孤独と焦燥と切迫感と恐怖があますところなく描かれているのですが、どうにも随所でおかしみを感じてしまうのです。これは國分先生の翻訳のなせる業でしょう。さあ、「僕」がどうなったか、知りたくはありませんか?)
 また、「アフリカの印象」は既に岡谷公二さんの素晴らしい訳での刊行があるのですが(平凡社ライブラリー) これを読んだ坂口恭平さんが描きに描いた100枚以上ものドローイングから、今回は可能な限りの枚数を収録し、その絵に合わせてシーンを抜粋しての抄訳としました。
 ぎっしり小さな文字の詰まった平凡社ライブラリー版に挫折した方も、読んでみようかな? と思う方も、坂口さんの素敵にユーモラスなドローイングを眺める本として、気軽に本書を手にとってみませんか?
 もちろん! ルーセルの入門編としても楽しんでいただけると思います!
 抄訳ですから、ときどき「えっ、このあとどうなっちゃったの!?」と思う場面もありますが、それは是非、平凡社ライブラリー版でご確認ください!!

 仔牛の肺臓製レール、大みみずがチターで奏でるハンガリー舞曲、一つの口で同時に四つの歌をうたう歌手が登場!?
 とある理由でアフリカにやってきてしまった主人公たちが出会う奇想天外な世界! 
 次は何が飛び出すのか。哀しい恋物語の結末は? そして彼らは、無事にアフリカを脱出できるのか!?

 

抄訳 アフリカの印象 Impressions d’Afrique
 


「逃げたやつらが隠れているのはここか?」
言語に挑み、文章を解体することから決して逃げることのなかった作家レーモン・ルーセルによる言葉の奔流。
仮想のアフリカを舞台に繰り広げられる奇妙きわまりない祝祭の只中で、あなたはきっと熱に浮かされて夢を見る。
奇才・坂口恭平によるドローイングで読む、見たこともない熱帯アフリカ。
希代の言葉の魔術師と、現代の奇才の燦爛たる競演。
機械的で難解なルーセルを少しだけ血を通わせて訳した新訳版で、あなたも奇想世界へ。

 
レーモン・ルーセル×坂口恭平 國分俊宏訳
解説:いとうせいこう
ISBN:978-4-908543-04-3
2016年8月23日発行
ライブラリー版サイズ(160mm×110mm) 306頁
定価:税込み千円

 
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