美味しいものをもとめて台北の街を歩き回る。交通網の発達した台北ではあるが、それでもひとたび旅行にいけばあちらも食べたい、こちらにも美味しいものが、というわけで、毎度けっこうな距離を歩くことになる。誰しも経験したことがあると思うが、歩いている時は楽しさに紛れて気づかないが、いったんホテルに戻ると、出かけるのが億劫になほど疲れていることもある。
だが台湾に旅すると、それすらも楽しみのひとつだ。足つぼマッサージに行けるからだ。
その日は、ホテルのそばにあるいつもの店ではなく、公園の向こう側の通りを見に行くことにした。
まだ朝早い時間だったが、なるほど、数メートルおきにマッサージの看板が出ている。どこに行こうか悩みながら歩いていると、その店はあった。ガラス張りの広い店内で、若い女性がひとり施術を受けているのが見える。半分ベッドのようなソファにゆったりと体を預け、携帯をいじっている女性と、マッサージをする少し年配の女性。他に店員も客もいないようだったが、どこかのんびりとした風情に誘われて、その店へ入ることにした。
歡迎光臨(ファンイングゥアンリン)、と施術中の小母さんが振り返った。日本で言う「いらっしゃいませ」だが、台湾できくこの言葉は節を付けたような言い回しが独特で、耳に心地よい。それもアパレルショップや百貨店などの気張った言い方ではなく、ほわんと気の抜けたようなのが好きだ。
小母さんの声は、そのちょうどいい「歡迎光臨」だった。ニーハオ、と声を掛けて椅子に腰掛けると、不意に小母さんは施術を中断して電話をかけはじめた。客の女性は気にする風もなく、相変わらず携帯電話の画面を見つめている。やがて電話を終えた小母さんは私に「ちょっと待ってください」と言い置いて、再び施術に戻った。言われたとおり待っていると、数分もしないうちにガラス扉を押し開けて慌ただしく女性がやってきた。新しい客か、と思ったが違うようだ。どたどたと入って来たさらに年配の女性は、ソファを指しながらこちらどうぞ、とやはり日本語で言った。この小母さんも店員なのだった。どうやらこの時間は、客が増えたときだけ呼ばれる仕組みになっているようだ。
足のツボを日本語で解説した紙を手渡され、施術をうける。話せる日本語はそう多くはないようで、ただニコニコと小母さんはマッサージをしてくれた。私の母よりも年上に見えたが、小さな体のどこにそんな、と思うほど力強く圧される。「痛い」の一歩手前の気持ちよさ、絶妙な力加減に気づけばうとうとした私は、ソファの背もたれを起こされて目が覚めた。あっという間の[tcy]30[/tcy]分だった。
「気持ちよかった?」やはりニコニコとした小母さんは、仕上げとばかりに肩をたたいてくれた。靴を履いてみるとすんなりと足が入る。むくみがとれ、ひとまわり足が小さくなったのだ。流石の技術にうなりながら、私は鞄からガイドブックを取り出した。軽くなった足で、さあ今日はどこへ行こうか。
【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第4回
アクロバティックな無茶 ――九州限定配本
坂口さんがご自分の書いた百枚のアフリカの絵をくれるという。
その話をして別れた直後、加地が始めたのは「本ってどうやって流通しているのか」を再確認する作業だった。
その前に一つ、説明しておこう。
伽鹿舎のおそらく最大の特徴である「九州限定配本」である。
伽鹿舎で、本を出す際には、九州限定で配本する。九州でしか、手に入らない本にするのだ。
この、誰に言ってもまず「何故!?」と驚かれる方針を決めた理由だ。
それは、伽鹿舎のメンバー全員が、伽鹿舎を本業にはしていない、ということから出来上がった必然だった。
そもそも、伽鹿舎には出版関係者がひとりもいない。書店関係者すらいない。
全員が本業を持ったままで伽鹿舎に参画している。逆に言えば、そうであるからこそ、やれている。食べていくだけの稼ぎは本業で得ているから制約なしに伽鹿舎を存在させられるのである。
ということは、伽鹿舎の為に全面的に時間を割くことは出来ない。
勿論、それは片手間という意味ではない。いや、それは片手間だよと言うひとも勿論あるだろう。だが伽鹿舎の人間は誰もそんな風には思っていない。
無理はしないと決めた。続けていくためだ。だが手は抜かない、とも決めた。そうでなければ意味がなく、作品を寄せてくれる作家に失礼だからだ。
伽鹿舎が名を残し、ゆるぎなく存続しなければ、そこに作品を寄せてくださっても誰にも届かないことになってしまう。私たちはこれが良いと思うのだと、ある意味で声高に触れ回り押し付けて回ろうとしている厚かましさがないなら、新人を世に出す、などと言えはしないし、それが名もない誰にも相手にされない出版社では意味がない。本はただ出せばいいのではなく売れなければ困るのだし、売れるには知名度が必要であり、知名度がなければそもそも売れないのである。はっきり言って、全部を同時に実現するなどというアクロバティックな無茶を要求されていると思ったほうがいい。
本の作り方だけは知っていた。印刷所に入稿するだけのデータを作ることは、出来る。これは加地一人でも出来た。だが、それでは駄目だった。加地は素人で、物は日本中の人に欲しいと思ってもらわなければならないのだ。最低でも、デザインはしっかりとしたものでなければ「物」としての価値がなくなる。WEBデザイナーとして迎えた飯田に、書籍や紙面のデザインも手を貸してくれるように頼んだ。快諾を得て、本はさしあたって二人でメインになって作業をすることを決めた。それ以上の外注は考えない。何故なら、印刷代の回収以上のことを考えるには、伽鹿舎は資金もないし知名度もなさすぎる。
本だけなら、それで出来る。
問題はどうやって書店に並べるかだ。
基本的に、出版業界というものは、出版社、取次、書店の三者で成り立っている。出版社が本を作り、取次に卸すと、取次が書店に配本し、書店は配本された本を売り、売上を取次に支払うし、売れなければ返す、というのが一連の流れだ。取次は出版社に対し、当面の売上を渡すが、書店から本が戻ってくれば渡した売上を取り返すか、残りの支払で調整する。つまり、書店は出た本を調べまわって注文して仕入れる作業から解放され、売れないリスクからも解放される。取次は出版社に対して売れないかもしれない本を仕入れるリスクを、返金させられるという仕組みで免れているし、出版社は自力で書店を開拓したり手続きをしたり発送をしたり膨大な集金や請求書の発送をする手間から解放されている。
ところが、それで何が起こるか。お金のない出版社はとにかく新しい本を作りさえすれば初回の入金があるため、ひたすら本を出そうとする自転車操業に陥りやすいのである。
そうやって、出版点数は天井知らずに増えていったし、溢れかえった新刊の山に埋もれて、書店は全部に目を通すことさえ困難になっている。
それを受けて、この頃は直取引の小さな版元も増えてきた。取次を通さずに直接書店と取引をすることで、目の前のものをしっかり見据えて本作りをしようというわけである。
どちらが正しい、わけでもない。どちらにも一長一短があるし、どちらだって、正しいやり方だ。
では伽鹿はどうするのか。
前述の通り、資金力も知名度もない以上は、そうたくさんの数を刷ることは出来ない。おまけに、扱ってくれる書店を一店舗ずつ回って開拓するなんて時間も本業がある以上は絶対に無理である。
それどころか、全国からの注文の電話を受けることさえ無理だ。何しろ本業の勤務中になってしまうのである。
それでも、せめて取り扱ってくれる書店には少しずつでも挨拶には行きたいし、並べてくださった本を確認にだって行きたい。だったら、主要メンバーの集まる熊本から、どうにか一万円以上を掛けずに日帰りできる範囲でなければ無理だ。単純に考えれば、九州の真ん中に位置している熊本からその円を描けば九州ということになる。
だったら、九州にだけ卸せばいいのではないか。映画だって、東京から順に公開されるのである。九州は、たいてい東京から数ヶ月遅れる。下手すると半年くらいは遅れる。たまには逆があったっていい。九州で発売され、半年後にようやく首都圏でも売られる、そういうものがあったっていい。寧ろ、面白いじゃないか。九州限定の本である。ローカル雑誌なら聞く話だが、一般書籍でそんなことをやっているのはちょっと聞かない。スイーツがご当地限定で、キャラクターグッズがご当地限定なら、じゃあ本だってそうしたって良いんじゃないか。
これは、思いついてしまえば実にいいアイデアのように思えた。何より面白い気がした。「片隅」からの逆襲である。たまには首都圏のひとびとに手に入らないと呆然とする体験をしてみてもらってもいい。首都圏コンプレックスと、言わば言え。「片隅」の我々は、首都圏でしか手に入らないものの為に死に物狂いでやりくりをして首都圏まで出掛けて行くのである。欲しいもののためなら、人はそのくらいのことはやる。そのくらいの情熱を持ってもらえるような、そんな本を作れたら最高じゃないか。
当然、今までそれが存在しないと言うのは「そんなことうまくいくわけがないから」だという可能性は当たり前に考慮する必要があった。それでも、九州限定配本は、絶対に面白い気がした。
最初は、そうして半年なり一年後には、全国にも展開すればいいのではと考えていた。タイムラグでいい。
しかし、最終的にはこれは覆した。九州限定は、あくまで九州限定でなければならない。いずれ手に入るのなら、わざわざ出掛けなくても待つ、という人は幾らでもいるに決まっているのだ。
偉そうに書いているが、それを教えてくれたのはお笑い芸人キングコングの西野亮廣さんだった。こんなところで突然ニシノアキヒロが出てきて仰天したかもしれないが、事実だからしょうがない。これについての詳細は別の機会に譲るとして。
伽鹿舎は、九州限定配本をしよう、と決めた。ご当地キャラやご当地スイーツのように、本で九州に人を呼べる、そんな出版社を作りたかった。そうして、九州を本の島にするのだ。
「おもしれーじゃん!」
そう坂口恭平さんが言ってくれた伽鹿舎の方針は、こうして誕生したのだった。
勿論、その時点では数年後に実現するつもりだったのだ。
だが、今、目の前に素晴らしい作家がいて、作品を提供しようと言ってくれている。
飛びつくことにした。アクロバティックな無茶をやり遂げる方法などまだ何もわからない。わからないが、絶対にこれはチャンスに決まっていた。
だから、最初にやったのは「どうやって書店に本を並べるのか?」という、しかも九州限定配本などという妙なことを実現するための、方策を探すことだった。
(つづく)
空色の地図 ~ロンドン編~10 自転車 久路
ロンドンの空気は心地よい。東京とくらべ湿度が低いからかもしれないし、高い建物が少ないからかもしれない。ロンドンと言えば鈍色の空を思い浮かべる人も多いだろうが、初夏から初秋にかけてはからりと晴れる日も多く、青い空と赤いダブルデッカーのコントラストがひときわ美しく映える。
自転車のペダルをこぎながら、私はロンドンの風を全身に受けていた。
テムズ川のほとり、サウスバンクにあるレンタルサイクルショップでは、三時間ほどかけて市内の主要な場所を巡るツアーを行っている。今日の参加者は総勢十余名。私もその一員となって、自転車をこいでいた。
欧米人にあわせているため、日本でも背の低い私は自転車にまたがると少し不安定だった。だが一度こぎ出せば日頃乗り慣れた自転車のこと、問題なくついて行ける。オーストラリアや香港、アメリカなど、世界中から訪れた人にまじってペダルをこぐ。石畳のしきつめられた川辺の舗道は、午前中のためかそう人は多くなかった。木立がつくる影を通り抜け、ヨーロッパ最大級の観覧車、ロンドンアイの足下へ。
ちょうどテムズ川の向かいに国会議事堂とビッグベンが見える場所だ。エレンのガイドを聴きながら、単語や年代を懸命に追う。幸いゆっくり話してくれるので、英語の得意でない私でもなんとなく理解できた。オーケイ?と確認されて思わず「オーケイ」と返すと、にっこり笑ったエレンは自転車にまたがった。
一般道に出た私達はゆっくりと自転車をこぐ。ロンドンでは、自転車は原則車道を走るので、左側通行だ。橋を渡りバッキンガム宮殿で再び説明を聞き、一列になった私たちはハイドパークへと向かった。
どうにも自転車の調子が悪い、と感じたのはこの時だった。ペダルを踏んでも空回りしてしまう。おかしいなと思いながらも懸命にこいでいると、ガシャンという音と共にチェーンが外れてしまった。
困り果て自転車を降りた私の横を、ツアーメンバーが走り去っていく。だがその中の一人がすぐに戻ってきてくれた。母親とロンドン旅行にきたというアメリカ人の青年だ。
「どうしたの?ああ、チェーンが外れたんだね。見せてごらん」
手を真っ黒に汚しながら直してくれた彼に、サンキューとしか返せない自分がもどかしい。せめてもとハンカチを差し出すが、これくらい平気さと笑った彼は、受け取ってはくれなかった。
少し先で待っていたエレン達と合流し、再びツアーがはじまる。自転車からの景色は、ちょっぴりのハプニングと青年の優しさに彩られていっそう鮮やかに見える。やわらかな追い風が吹き、ペダルも軽く私はロンドンの街を駆け抜けた。
【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第3回
誤算
レーティングもジャンル制限もせず投稿を受け付けた上で、これはと思うものはどんどん世に知らせるべく公開し、本にし、「文藝」を信じきってやっていく、そういう場をつくりたい。
そう言って伽鹿舎を始めるに当たって、まず最初にそれをいいねいいねこうしようああしようと一緒になって考えてくれたのは木間だった。そもそも木間が「やろう」と言ってくれなければ伽鹿舎は誕生すらしていない。よくある友人同士の、こんなものがあったら面白い、という盛り上がるだけ盛り上がった挙句に消えていく「何か」になる可能性はそれなりに高かった。が、そうはならなかった。
発想の出発点は「自由な投稿サイト」だったから、スタートがWEBであることは即座に決定した。木間の本業はエンジニア、いわゆるプログラマだとかSEと呼ぶべきものだから、ある程度のものを作る事が出来る。
木間と話し合い、ただ投稿サイトを用意するのではなく、投稿サイトを経た結果、これはと太鼓判を押せるものをピックアップして毎日更新される、そういうWEB文藝誌が良い、と話がまとまった。つまり、表に見えているのはWEB文藝誌のみだ。ほかにクローズドで投稿サイトを作り、そこでは投稿は出来るが作品は参加者にしか公開されない。
では誰が「セレクト」するのか、が問題だった。木間はあっさりと、まずは加地さんがとそう言った。
通常「編集」というと、誰もが出版社に勤務する「編集者」を漠然と想像するのだろうと思う。作家のところに原稿を取りに行き、待たされてじりじりする、なだめたりすかしたり怒ったりしながらなんとか原稿を貰う、そういうステレオタイプの編集者像はドラマやマンガでも見掛けることがある。
だが、「編集」というのは、私たちが日常的におこなっている事でもあるはずだ。誰しも日々、洋服の組み合わせを決め、家具の配置を考え、何に優先順位を付けるか無意識に考える。それらは広く言えば「編集」だと言って良い。
そういう広い意味での「編集」なら確かに出来る。
だったらそうしよう、と思った。加地はそう特殊な人間ではないから、大多数がそっぽを向く、というようなセレクトにはならない。だが、無くて七癖と同じく、選ぶものは確実に一つのテーマを孕むはずだ。それは否応無くそうなる。それを提示してみるというのは面白い。書店で書店員さんがどんな本を選んでどう並べるのか、それによって棚の個性が決まるように、そんなWEBサイトになれば良いと考えたのだ。
そこでもう一つ、方向性が決まった。加地が九州の人間だから、じゃあ九州でセレクトする、ということにこだわってみようじゃないかと。「伽鹿舎」全体の「編集方針」は「九州」になったわけである。
木間は実は九州には全く関係が無い。出身も学校も職場も現在の居住地だって九州ではない。それでも、この方針を面白いと言ってすぐに賛同した。現在までに集まったスタッフは、誰もが「面白いから」と参画の理由を口にした。
幸いにして、以前に手伝ったWEB投稿サイトのお陰で書店員さんたちとの交流が続いていた。せっかくなら、「セレクト」に彼らに参加してもらえたらもっと面白いなと思った。九州の書店員はどんな作品を選ぶのか。ある種の土地の傾向があるのかないのか、静岡での本の賞のように、独自の「編集」が誕生すれば絶対に面白い。
この「投稿サイト」は面白くなると思えた。木間と何日も掛けて構想を詰めた。詳細は次回以降に譲るが、実現すれば楽しいだろうと思えたし、見回しても今のところ、今現在に至るまで、似たことをやっている投稿サイトも見当たらない。
これで行こう、と決め、WEBデザイナーを次にスタッフとして迎えた。
投稿サイトとWEB文藝誌サイトの二つを同時に作らなければならないから、構築を依頼した。文藝誌は4月の本の日に始めようと話はまとまった。正式公開まで4ヶ月足らずである。投稿サイトなど一夜で出来るものではないから、仕組みが出来上がるまでは、純粋に原稿を募る、あるいは依頼するしかない。すぐにその仕事にとりかかった。わくわくしたし、楽しかった。面白いものが出来るだろう、とそう考えていた。
WEB文藝誌の誌名を「片隅」と付けてくださったのは大分の井野裕先生だ。
九州は日本でも中心からは実に遠い。そういう場所から敢えて、という気持ちを篭めた「片隅」という誌名を我々はとても気に入っていた。
「片隅」のロゴは加地が作った。そうそう資金があるわけではないから、自分たちで出来ることは全部やる。続けて木間と舎名を決めた。カジカ、というのは、魚とカエルの二種類存在している。どちらも美しい清流にしか住まない。九州らしいんじゃないか、と思った。カエルのカジカは鹿のような綺麗な声でなくから河の鹿なのだという。九州は山が近い。鹿は身近な生き物だ。カジカの音を貰い、鹿の字を使って、さて残った「カ」をどうするかと考えて「御伽草紙」から「伽」をとった。その頃には合流してくれていた青木は室町時代が専門の研究者だ。「いいじゃないか、御伽草紙のように、ずっと残り続けるものを、と願いを篭めよう」とそう言った。決まりだ。
そうと決まってから舎のロゴの依頼をした。こればかりはどれだけ木間と二人でこねくり回してもどうしてもしっくりいかなかったのだ。手書きの文字で、真ん中の鹿の字だけを象形文字のような、それ単独でイラストとしても使えるようなものをと方向性は決まっていたというのに、どうやっても巧くいかない。困り果てた挙句に、以前から手掛けるデザインがとても好きだった福岡のテツシンデザイン事務所さんに連絡を取った。図々しくお願いをした我々に、テツシンの先崎さんは「やろうとしていること、面白いと思います。応援しますよ。つくりましょう、ロゴ」と快く引き受けてくれた。「だけど難しいなあ、ここまで出来ているとね」と困った顔をする彼に、「だからとびきりのプロにお願いしたいんです」と頭を下げた。ごく親しくなさっているというとある書店の店主をして「あの人はマエストロだからなー!」と言わしめる先崎さんは、苦笑したのちに笑ってうなづいてくれた。「少し時間をいただきますけど、引き受けました」
準備は万端だった。WEB文藝誌がうまくいけば、そこから連載作品を一冊にまとめる、あるいはアンソロジーとして作品をまとめて一冊にする、そういう風に出版も出来るのではないか、と考えた。WEBはすぐにでも始めることが出来るが、出版はそうではない。だから、二年か三年後に、本が出せるように頑張ろうと、そんな話をした。
書店員さんを初めとして、興味を持ってくださった方には躊躇わずにこれらの話をした。誰もが応援すると、楽しみにしていると言ってくれた。きっと面白い本が出来ると気の早いことに予約しますよと言ってくれた人もいる。
そんな中、既に面識のあった、熊本市在住の作家で建築家で、要するに芸術家と呼ぶのが早いかもしれない新政府総理大臣こと、坂口恭平さんにお目に掛かった。そもそもは坂口さんの、東京のとある展覧会に行きたいがフーが(奥様だ) 航空券買ってくれるかっていうと難しそうだなあ、というTwitterでの呟きに、加地が「じゃあ航空賃を出しますから、代わりにレポートをWEB片隅に書いてくれませんか?」と声を掛けたのがきっかけだった。
熊本市内でも指折りに素敵な書店である橙書店さんの、隣接するOrangeというカフェで落ち合った坂口さんは、話を聞くと大きな眼を更に大きくして言った。
「それすっげーおもしろいじゃん。面白い。でもどうやって金にすんの?」
「WEBでそう簡単にお金になるとは考えていないんです。いずれ、出版に結びつけば、そこから少しずつでも資金が出来ればと思っています」
ふうん、と気のなさそうに言って、しかし直後、坂口さんはおもむろにスマートフォンを取り出した。
「加地さ、それすぐやったら良いじゃん。いつかとか言ってないで、本、出せよ。あのさあ、俺が昔、すげー昔ね、描いた絵があんだよ」
話の方向が見えずに目を点にしていた加地に、坂口さんはにやりと笑った。
「百枚だよ、百枚。アフリカの絵。ルーセルの『アフリカの印象』って知ってる? あ、知ってるんだ。あれのね、絵を俺が勝手に描いたの百枚。面白いでしょ?」
「それは面白いでしょうね! すごいな!」
「うん、だからそれ加地にやるから、本にしなよ」
スマートフォンを操作して繋がった先の相手に、もう坂口さんは言っていた。ここに熊本で出版やりたいって面白い子がいんの、俺の絵をさ、あげようと思ってさ、そっちにあるでしょ、探しといてよ、よろしく!
ここから始まる大誤算のパレードの、最初の一つがこれだった。
(つづく)
空色の地図 ~台湾編~9 誠品書店 久路
仕事でよく台湾へ行くという知人に話を聞かせて貰った。私が初めて台湾に行くと言うと、美味しい食べ物、マッサージの店、交通事情などを様々に話してくれたあと、最後に付け加えた。「台湾は南国だから、雨の日が続くこともある。そんな時はここへ行くといい。たっぷり半日は飽きないから」それが「誠品書店」だ。
誠品書店は、その名の通り「本屋さん」だ。台北市内に数店舗あり、昨年もCNNの選ぶ「世界で最もクールな書店」にランクインした。そう、本好きには外せない場所なのだ。
ただの書店と思う無かれ。誠品書店はビル全体が「誠品書店」なのだ。児童書や専門書、一般書籍から世界中の本にいたるまで、様々な種類の本が並んでいる。(一店舗に、およそ数十万種類、数でいうと一千万冊以上の本が売っているという。) 勿論日本の書籍もその一角を占めており、今日本でベストセラーとなっている本がそのまま並んでいたりもする。
ここまで説明すると、在庫や種類の豊富な大型書店といった印象だが、勿論誠品書店はそれだけにとどまらない。地下にはスイーツやパンの店が、上の階にはカフェや有名レストランも入る、まるでデパートのような書店なのだ。入っているショップは台湾の若手デザイナーの店が多く、モダンで可愛らしい雑貨や家具は、眺めているだけでも小一時間ほど経ってしまう。確かにこれだと半日なんてあっという間だろう。勿論台湾らしいデザインの文房具なども豊富に揃っているので、お土産を選ぶのには最適だ。
そして驚くことに、フロアによっては[tcy]24[/tcy]時間営業をしているのだ。夜中でも「あの本が読みたい!」となればいつでも買いに行ける。なんてうらやましい台北の人たち。
前回訪れたのは、誠品書店のなかでも一番あたらしい「誠品生活松菸店」だ。目当ては地下のパン屋さん。世界一のパン職人を決める大会「マスター・ド・ラ・ブランジュリー」で、2010年にパン部門で優勝したお店があると聞いたからだ。
「誠品生活松菸店」は、優雅な曲線を描く外観がとても印象的だ。真新しい建物の入り口をくぐり、エスカレーターで地下へと向かう。ひとだかりと行列で、すぐにパン屋は見つかった。少しだけならび、小麦の香り漂う店内で台湾ならではの葱入りパンとメロンパンをいくつかトレーにのせる。会計を済ませると、いざ建物の外へ。地上へ続くおおきな階段に座り、買ったばかりのパンを囓る人たちに混じって私も包みをあけた。やはり焼きたてはその場で食べなくては。まだあたたかいパンへかぶりつくと、葱の香ばしいにおいが口いっぱいにひろがった。
小腹を満たしたあとは、ガイドブックのエリアへと向かった。現地の方むけの、日本のガイドブックを探すのだ。東京でも大阪でも、京都の本でも構わない。よさそうなものを選ぶと、私はレジへむかった。異なる国の人が、日本をどう見ているのか、どこへ行くと楽しいと思っているのか。言葉が全部は分からずとも、ピックアップされた観光地やお店を眺めていると、よく知る場所のはずが、見知らぬ土地のように見えてくる。まるで、見え方の違う眼鏡で「日本」をのぞき見ている気分だ。
本だけに限らず、美しいもの、面白いもの、美味しいもの。さまざまな「台湾」を見ることができる誠品書店は、今まで知らなかった「日本」の姿もまた、見せてくれる気がする。
【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第2回
それから先の事は自己の芸術的良心に従って行えば可い――
そもそもの、話をしよう。
伽鹿舎の、最初の最初、だ。
まだ、本を出版するところまで行き着くなんて、思っていなかった、出来たらいい、くらいの、ぼんやりした概念でしかなかった伽鹿舎はそもそも何をしようとしたのか、だ。
そう、最初は単純な事だった。ごく親しくしている作家さんが途方に暮れたようにある日つぶやいた、その一言がきっかけだったのだ。
「レーティングもジャンル制限もない投稿サイトって、なくなっちゃうんですねぇ」
驚いた。
個人でサイトやブログに作品を載せるのではなく、会員登録をして「投稿」し、たくさんの人の作品がずらっと並ぶタイプの「投稿サイト」は花盛りのように見えた。「小説家になろう」というサイトに至っては「なろう系」などと呼ばれて、そこから書籍化された小説群は一つのジャンルの様相を呈している。自由に誰もが作品を投稿できる「投稿サイト」は掃いて捨てるほどある、と思っていた。
なのに、「レーティングもジャンル制限もない投稿サイトがない」とは。
元々、加地は読むのも書くのも好きで、ずっと他人の作品も読んできた。
それが高じて自分の本を作ったり、頼まれて友人知人の本を作る手伝いをしたりしてきたのだ。
インターネット上での作品の公開と言ったら、個人サイトを作ることが主流だった時代からずっと、アマチュアの書き手が互いに読み合い助言し合い、時には血で血を洗うようなとんでもない騒動を起こしたりしながら発展(?) してきたのを見てきたのだから、年期が入っている。
確かに、「投稿サイト」では「軽い読み物」が好まれるという印象はあった。書籍化されれば、懐かしの「ケータイ小説」に括られるものから「ライトノベル」と呼ばれるものまで、エンタメとしての「面白さ」を最上級とした物差しで測られるようなものがメインだったことは否定しない。
重厚な作品や長編、文学的に過ぎる作品は、どうしてもデジタルな画面で読むには疲れてしまう、という印象が強いのも確かだ。
だから、文藝賞作家の今村友紀さんが「クランチマガジン」を立ち上げたことをとても面白いと感じた。純文学作家が立ち上げた投稿サイトには、文学的な作品からライトな作品までまんべんなく投稿されたし、分け隔てなく感想がつき、交流があった。
この「クランチマガジン」が、「発展的解消として消滅する」と発表されたときに、冒頭の発言は飛び出したのだった。
「レーティングもジャンル制限もない投稿サイトって、なくなっちゃうんですねぇ」
言われてみて愕然とした。
元より、純文学が投稿されて「見向きされる」サイトは殆ど存在しない。そのうえ、あちらのサイトもこちらのサイトも「こういうものは投稿してはいけない」という規約が事細かに決まっている。なるほど、「レーティングもジャンル制限もない投稿サイト」はないに等しかった。その僅かな「ある」が「クランチマガジン」だったのだ。
結局、クランチマガジンさん自体は、存続した。途中、どうしても無理だというクランチマガジンの運営を手伝ったりもした。加地が多少なりとも世の中の人に知られている可能性があるとしたら、クランチマガジンの運営を僅かな期間でもやっていたからだろう。少しの方針転換をし、クランチマガジンは生き延び、最終的には今村さんご本人の管理に戻ることも出来た。
だが、この「レーティングもジャンル制限もない投稿サイトが存在しなくなる」という危機を目の当たりにしたことが、伽鹿舎の母体となる漠然としたイメージを作ったのだった。
レーティング、とはなんだろう。
ジャンル制限、とは。
どちらも、「こういうものはいけませんがこういうものなら良いでしょう」と決めたルールだ。
それって本当に「文藝」に必要なのか、というのが加地にはどうしても納得がいかなかった。何故、そんなものが必要になるのか。無論、公序良俗に反するものをみだりに撒き散らすわけにはいかない。そんなことは当たり前のことだ。だが、どこで線を引くのか。明白に犯罪でない限り、それは各人の信念のはずだ。
九州とは、とりわけ熊本とは縁の深い種田山頭火を加地は好きなのだが、その山頭火が、ある歌会の発足に当たり、書いた言葉がある。四つほど、些細な決まりごとを述べて、彼はこう書いた。
△申合は此位にして置きたい。此以上呶々すると面白くなくなる。それから先の事は自己の芸術的良心に従って行えば可い。それで腹を立てたり拗ねたり泣き出したりするような人は野暮だ。
△ただ一つ、もう一つ、私として――無遠慮な、ぐうたら男の私として、予じめ頼んで置きたいことがある。それは、若しも何かの間違で、諸君が右の頬を打たれなすったとき(或は接吻せられることもあろう)左の頬を出されないまでも、じっと堪忍して、願わくならば微笑でもしていて下るほどの雅量を持っていて欲しいということです。小供のするような無邪気な喧嘩ならば面白いけれど、大供のする睨合には感心しません――
これ以上の、何が必要だろう。
だから。
「レーティングもジャンル制限もない投稿サイトって、なくなっちゃうんですねぇ」
こう作家さんに言われたときに暫く考えて、木間に言った。
レーティングもジャンル制限もせず投稿を受け付けた上で、これはと思うものはどんどん世に知らせるべく公開し、本にし、「文藝」を信じきってやっていく、そういう場をつくりたい。
伽鹿舎は、そんな風にして始まったのだった。
(つづく)
【出版社物語】伽鹿舎:本恋う鹿は笛に寄る 第1回
『伝えられない』を『伝える』ための『物語』を――
間もなく、2015年が終わろうとしている。
伽鹿舎が正式に活動を開始した4月から今日までに、8ヶ月と少しのWEB更新を行い、2冊の書籍が発行された。
西日本新聞、大分合同新聞、熊本日日新聞、そして朝日新聞に取材をいただき、記事を掲載していただいた。今も、いろんなメディアが取材の申し込みをくださっている。
同時に、たくさんの方にメールを戴き、作品を送っていただいた。
きっと、伽鹿舎のやっていることは間違っておらず、同時に「珍しい」ものであったのに違いない。
これから、伽鹿舎が何を思って始まり、どうやって今日までをやってきたのか、そして明日から何をするのか、未来に向かってどうしたいのか、を加地が語ろうと思う。
それが、たった一つ伽鹿舎にしか出来ないみなさんへの「お礼」になると思うから。
■復刊って幾らで出来るんですか?
つい先日、発売された当舎の「幸福はどこにある」は一二年前に出たNHK出版による翻訳本の再刊行だった。
そこで読者の方から飛び出したのが、「復刊って幾らで出来るんですか?」という素朴な質問だ。
これに直接答える前に、書いてみたい。
この作品は夏ごろに上映されていた「しあわせはどこにある」(サイモン・ペッグ主演。一二月二二日よりKADOKAWAからブルーレイ・DVD発売、レンタル開始) という映画の原作本でもある。
当然、配給会社は絶版になっていたこの原作本の復刊を求めた。しかし、実現しない。
当時、その本はハードカヴァーであり、税別千五〇〇円で発売された。今これを再版することは、確かにとても難しい。
少し、考えてみてほしい。
本を出すと、著者に印税が支払われる。大抵は、売価に初版部数を掛けた金額の1割だ。勿論、他に装丁や本文デザインやDTPや装画、編集者の給料だって、広告代もポスターや送料やしおり代、書店用POP代なんてものも掛かってくる。本を高いという人を結構な頻度で見掛けるが、こう考えると、本は寧ろ安い。どうやって維持しているのかと心配になるくらいには、安い。
ましてや、翻訳となると更に費用はかさむ。
原著者に印税を払い、現出版社に権利料を払い、翻訳者にも印税を払うことになる。
そもそも、翻訳、という仕事のなんと壮大で恐ろしく高邁なことか。
翻訳とは、他言語を一つの言葉に訳すということだ。ただ正確に伝わればいいだけの新聞記事であったとしても、それは相当な困難を伴う、と加地は考える。
何故なら、それは母語ではない。母語でない言葉の背景には、その言葉の生まれ、はぐくまれてきた長大な歴史があり文化がある。訳者は、全く違う土壌のうえにある言語同士を、もっとも近い、書き手の意に沿う言葉に置き換え、しかも原文のリズムを崩さず、雰囲気を壊さずに、更には訳された言語として不自然でないよう、訳文を作らなくてはならない。
当然に、直訳ではそれは意のままには伝わらない。そもそも、言語などというものは、本当には書き手の意図を正確になど伝え得ない。そんなことが出来ればそれは神の領域であるし、そう出来るのなら、恐らくバベルの神話は誕生しなかった。ひとは、言葉では全てなど伝えることが出来ない。出来ないそれに挑み、試み、辛うじて物にし、それでも足りないとあがき続けるからこそ、「作家」は尊ばれ、敬愛される。ただ言葉を並べることなら、母語話者でさえあれば可能だろう。それでも現実に「作家」と呼ばれるようになる人が限られるのは、それが理由の大半だ、とそう思う。ならば翻訳は尚更だ。それは本当に神に挑む恐ろしい業と言うべきだろう。
だから。
加地は翻訳者を尊敬している。その仕事を愛してやまないし、最上級の敬意を捧げたい。「作家」と「翻訳者」はどちらも「作者」なのだ。
「二人の作者」に印税を払い、しかもそれがその仕事量に見合うだけの対価になるようにしようと考えたとき、どうするか。全てがそうだとは言わないが、大半の出版社では、印税を幾ら払いたい→部数はこれだけしか刷れない→ならば必然として売価はこうなる→この売価で読者に納得させるにはハードカヴァーにせざるを得ないというようなプロセスを辿って売価や版型が決まっていく。そこに外注に出す必要経費や、社員の給料なども含まれるのだから、ことは印刷代だけの話では済まない。
印刷というものは、どうやっても基本的にかかる費用が動かせない。これは印刷に限らない事ではあるのだが、たとえば原版を作成するだとか、校正用に刷り出しをするなんてものは、百部だろうが万部だろうが同じだけ費用が掛かるのである。したがって、部数が増えたほうが一冊あたりの費用は下がることが多い。
もう、皆さんにもお分かりだろうと思う。
何故、「幸福はどこにある」が再版されなかったか。映画化という絶好のチャンスを得ても、それに見合うだけの部数が販売出来るというめどが立たなければ、基本的には出版社は二の足を踏む。
それはNHK出版だけの話ではなく、全ての商業出版社が抱えるどうしようもない現実だ。(なお、今回の伽鹿舎による再版に際して、NHK出版の方には大変なご協力をいただいた。ここに心から感謝を申し上げます)。
さて、今回、伽鹿舎ではこの本をライブラリー版、という版型で僅か二千部のみ、再版した。
冒頭の質問に答えるなら、この本を復刊する為に必要だったのは、印刷代のほか、シリーズとなる基本的な本の装丁デザイン案を出していただいたテツシンデザインオフィスへのお支払、装画を手掛けてくださった田中千智さんへの画像使用料(随分と安くしてくださった)、翻訳者高橋啓先生への印税(わずか8%)、原著者と原出版社へが同じく印税(先払いで合計わずか6%と破格の条件にしてくださった)、英語どころか日本語も少々あぶなっかしい加地にとって未知のフランス語圏との交渉という難所をなんなくお引き受けくださったフランス著作権事務所への手数料が約3万円に、フランスへの送金に必要な諸費用が約2万円、最後に当舎のデザイナー飯田への謝金と、たったこれだけである。
残念ながら余裕もなければ効果のほどもわからないので広告をうつ予定はなく、版組みやDTPは加地が自力でやっているほか、細かい調整やデザインの修正も加地が自分でやっているし、校正や編集も加地がやっているほかには同じく当舎の木間が担当しているから、これらには費用が生じない。伽鹿舎のスタッフは大体6名といつも説明するのだが、メインは加地であり、ほぼ加地が一人で何もかも決めて動かしているし、実作業が莫大に発生するデザイナーの飯田にはすずめの涙の謝金を払うが、加地を含めた他のスタッフは無給なのである。
逆に言えば、ほぼボランティアに支えられる非営利の出版社だからこそ、「幸福はどこにある」は再版出来たし、あの価格で販売できている。
従って、「復刊って幾らで出来るんですか?」という問いへの答えは、やり方による、と言うほかはない。今回の再版は原著者から翻訳者まで、全ての人が快く僅かな謝礼を承知してくれたし、多大なる協力をくださったから、実現した。もっと安く出来る、という人もあるだろうし、絶対にこれでは出来ない、という会社が圧倒的に多くても、それは当然のことだ。
■『伝えられない』を『伝える』ために
加地は、「幸福はどこにある」を、今の日本のたくさんのひとが必要としている物語だ、と感じた。強くそう感じて、届けたいひとたちがいたから、出すと決めた。
先に「ひとは、言葉では全てなど伝えることが出来ない」と書いた。
文藝は、小説は、それを敢えて伝えようとする試みだ、と加地は信じている。
どうしても伝えたくて、伝える言葉がなく、やむを得ず全くの同じ体験を言葉によって追い掛けてもらうことでようやく僅か、伝わる可能性に賭ける、その為にストーリーがあり、登場人物がいて、「物語」が成立する、だからこそ「作家」は「小説」を紡ぐのだと、そう考えている。
「物語」は「もの」を「かたる」ことだ。そこにある事象を、そこにあるものを、物自体が語り、物について語る、それによって、森羅万象を全部物語り世界に閉じ込める、そういう性質を孕んでいる。
たくさんの、「物語」を投稿していただいた。「詩」であったり「小説」であったり、形は違っても、全ては「伝えられない」何かを「伝える」ために書かれたはずだと、そう思う。
そうでないのなら、自分ひとりの心にしまっておけばいい。ノートに書き記し、そっと引き出しにしまっておけばいい。
そうではなく、たくさんの人に読んでほしいと、お金を払ってでも読みたいと思ってほしいと願うならば、それは「伝えられない」を「伝える」ことをあなたが試みているのに違いないのだ。
今年、一番たくさん書いた言葉は「あなたは何を伝えたいのですか」だった。
ガツンと、どうしても伝えずにはいられなかった何かが篭った作品は、力を持っている。どんなに文章がつたなくとも、響いて揺さぶってくる。
そういう作品を、「片隅01」に載せたし、この「WEB片隅」でも掲載した。これからも、そうしたいと思っている。どんなに小部数であっても、丁寧に、手渡すように作って届けたいと願ったから、始まった。
それをやるためだけに、伽鹿舎は出来た。
ゆく年、なんとか、最初の2冊を世に出すことが叶った。くる年、更に深い場所を、高い場所を、伝えられないけれど伝えたい何かを、目指したいと思う。
伽鹿舎は、ここにあって、こういう風に、最初の一年を過ごした。
どうか、あなたのところにも、「何か」が届けられていますように。
次回から、出版社をやるってどういうことなのか、何故九州限定なのか、きっとみなさんが疑問に思っているそれらを、もっと詳細に書いていきたいと思っている。お付き合いいただければ幸いです。
また、よければ知りたいこと、疑問・質問など、お気軽にお寄せください。
空色の地図 ~ロンドン編~9 ロンドンの花 久路
イングリッシュガーデンという言葉を、聞いたことがあるだろうか。フランス式の幾何学的に作り込んだ庭園ではなく、自然の景観を取り入れ調和を図る庭のことだそうだ。こう聞くと、どこか日本庭園に通じるものがある気がするのは、私だけだろうか。
と言いながら、実は残念ながらまだ私自身、本場イギリスで「イングリッシュガーデン」を見ることはできていない。だがその端っこには触れている、と思う。なぜならロンドンを歩いているだけで、美しい花たちに出会えるからだ。アパートやレストランの窓際にはヘデラと一緒に植えられた赤や紫の花がぎっしりと咲き誇り、パブの軒先にいくつも吊されたハンギングバスケットからは、こぼれそうなほど沢山のゼラニウムが顔をのぞかせている。シックな黒いバスケットから溢れるオレンジに、目をとられながら歩くロンドンの街は、改めてこんなにも花に溢れているのだと気づく。むしろ花を飾っていないパブを探す方が難しいくらいだ。
通りがかった教会では、正面玄関の左右にはじまり扉の上、手前のコンテナにハンギングバスケットと、まるでお祭りかと見まごうばかりの花の装飾で彩られていた。紫陽花のブルーを基調として濃淡とりまぜた花たちは、赤みがかった煉瓦の色とあいまって、まるで一枚の絵画のように完成された景色だった。
夏は朝5時から夜の9時くらいまで明るいロンドンも、秋になると一気に日暮れが早くなる。冬ともなれば3時を過ぎると夕暮れを迎え、長い夜が街を包む。そんなロンドンに彩りを添えるのが街中の花たちだ。ひとつ角を曲がるたびに出会う葉牡丹や水仙、パンジーたちは、鈍色の空を受け止めどこか重苦しい街で、色鮮やかに咲き誇る。ロンドナーの矜恃にも思えるその花たちは、健気というよりも凛としているように見えた。
ホテルのそば、古めかしいウエストミンスター教会の角を曲がりヴィクトリア駅へと向かう。緩やかに婉曲した裏通りに観光客の姿はなく、時折スーツ姿の紳士とすれ違う程度だ。小さなアパートメントが連なるここにも、やはり色とりどりの花で縁取られた窓が並ぶ。
その軒先にある小さな庭に、車のホイールのようなものがにょっきりと突き出ているのを見付けた。ホイールの周りにはこれも同じく金属製の、円盤を半分に切った形のものがぐるりと取り囲むように付けられている。何かに見える――そう、ひまわりだ。ちょうど空に向かって顔をさらすようにたたずむ、金属製のひまわり。よく見ると柵の所に制作者らしき人の名前と、英語が書いてあった。
――BEAUTY THROUGH ADVERSITY。
逆境を乗り越えた美、苦難に磨かれた美しさ、といった意味合いだろうか。
薄暗い天を仰ぎ、陽の光を待ちわびる銀色のひまわりもまた、ロンドンを彩る花のひとつなのかもしれない。
空色の地図 ~台湾編~8 小籠包 久路
昼時は地元の人であふれかえるという裏通りの店も、時間をずらせばすんなりと入店できる。繁華街から離れた場所にぽつりとあるその店は、朝の9時から小籠包を出すことで知られた名店だ。昼の飛行機で帰国する私達は、台湾を満喫し尽くそうと最後の小籠包を食べに訪れたのだった。
初めて小籠包を食べたのは、実は香港でのことだった。こんな美味しいものがあるなんて、と衝撃を受けた思い出がある。今でこそ本格的な小籠包は日本でも手軽に食べられるようになったが、ほんの十数年前までは「ショウロンポウ」という名前ですらメジャーではなく、私もその存在を知ったのはガイドブックでだった。上海が発祥と言われる小籠包は中華圏であればたいていどこでも食べる事ができるが、有名店の台頭もあり、今ではすっかり台湾グルメの代名詞となった。豚肉の餡を薄皮で包み、蒸し上げる。皮が薄く肉汁がたっぷり入っているものが好まれる傾向にあるようだ。とりわけこの店の小籠包は肉汁がたっぷりとしていて、メニューにも「小籠湯包」と書かれている。オーダーシートで注文を済ませ、あとは待つだけだ。
テーブルに運ばれてきた蒸籠の蓋を取ると、閉じ込められていた湯気が一気に立ちのぼる。このときにあまり顔を近づけてはいけない。湯気で火傷をしかねないからだ。カメラを構えるならひと呼吸おいてから。そうしないと湯気でぼんやりとしか小籠包が映らないし、そもそもレンズが曇ってしまう。
そうして現れた小籠包は、蒸籠のなかに規則正しくつつましやかに並んでいる。ころんとまるみを帯びたフォルムは可愛らしく、絞られたようなてっぺんにはかすかに肉汁が浮いている。箸をのばすのはこのてっぺんだ。薄皮が破れないよう細心の注意を払ってそうっと持ち上げる。たぷん、と肉汁の中で餡が泳ぐ音が聞こえる。持ち上げた小籠包の下にすかさずレンゲをさしこみ、ぷるぷる揺れる小籠包をのせることができれば、成功だ。あとは千切りのショウガをひとつまみ、黒酢をかけてかぶりつく。
猫舌の私だが、小籠包だけは口の中が火傷しようとも熱々で食べるのが好きだ。絞られた上の皮を少し囓ってスープを啜り、それから全体を口に入れるという作法があるらしいが、私は一口で頬張った。餡と肉汁のスープが口の中で渾然一体となり、えもいわれぬ至福の瞬間がおとずれる。
旅の最後を小籠包で締めくくり、思いをはせるのは今回行けなかったあの名店の小籠包だ。次こそは、と思いながら帰りの飛行機に乗るのもいいものだ。そうして私は半年もせぬまにまた、台湾へ戻ってくるのだろう。
魂に背く出版はしない 第7回 渡辺浩章
第7回 予言
前回に書いた夢の人=曾祖父の声を、数年後にも耳にしました。より適確に表現すれば、頭の中に言葉が走った、メッセージが侵入してきた、という感じです。[tcy]20[/tcy]世紀最後の冬、2000年[tcy]11[/tcy]月[tcy]19[/tcy]日日曜日の正午過ぎ、一人で富士山を登山中のことでした。
「身辺整理をしなさい。生活を立て直しなさい。」
そのようなメッセージが頭の中で響いていました。
当時、勤務していた男性週刊誌のテコ入れ問題で社内は紛糾していました。体制派はグラビア系週刊誌への変身を主張していました。私は存続派=少数派でした。結局、年明け1月に休刊となり、編集部は解散しました。
その最終号に富士山での体験記が掲載されているので読み返してみます。
〈広い雲海を眺め、俺はあの世とこの世の境目に立っているような気分になった。そして頭に言葉が走った。“『週刊○○』とはお別れだ。生活を立て直せ” と。〉
このような声は自分の内側から発せられているようにも思うのですが、その正体はもちろん分かりません。ともかく声に従い実行しようと試みました。でも実際には雑誌休刊に伴う諸事情に対応するだけで手一杯となり、しばらくはそんな余裕はありませんでした。それでも、営業へ異動してから1年余りの時間をかけて、身辺整理、生活の立て直しなど、予言のとおりに実践しました。
一段落ついたころ、2002年8月[tcy]20[/tcy]日の午後、白石一文さんと初めてお会いしました。単行本『僕のなかの壊れていない部分』のサイン本を作る会場で。翌年2月には次作『草にすわる』の刊行に携わり、2004年2月には、白石さんが出版社を退職して独立後初となる作品『見えないドアと鶴の空』が発売され、私はその営業に注力しました。
このとき、作家独立記念として白石さんの地元・福岡の紀伊國屋書店でサイン会を行いました。その2日前に私は福岡入りして、白石さんと会い、サイン会や地元の書店廻りやラジオ番組への出演などのスケジュール確認を行いました。喫茶店でコーヒーを飲みながら、ひと通りの説明を終えて、打ち合わせが終了すると、白石さんが不意に、質問しました。
「ところで渡辺さん、いまつき合っている
いえいえ、と私。離婚を経て、いまは独身を楽しんでいます、池袋の北口にハルピン出身の男が営んでいる餃子屋があって、そこの常連は[tcy]30[/tcy]代、[tcy]40[/tcy]代の独身男ばかりで、私もその店に入り浸って夜を過ごしています。そんなことを私は話しました。
「それでは渡辺さん、東京に帰ったらお見合いしてください。二人でその餃子屋に行ってください。」
福岡での仕事を終えて東京に帰った週末に、私はその女性を餃子屋に案内しました。現在は鉄筆社の経理や事務を担う私の妻との出会いです。いまにしてみれば、福岡での白石さんの言葉のなかには、すでに予言のようなものが含まれていたのかもしれません。
鉄筆社を起ち上げるときには、こんな助言と予言を授かりました。
「独立するからにはやはり最初が肝心、業界があっと驚くようなことをやってまあそこそこです。鉄筆社の創立第一作は『翼』を文庫化して新しい文庫レーベルを創刊してください、それぐらいのことをやらないと。」
白石さんに提案されたとき、まさしくその通りだと実感しました。そして予言は的中しました。最初に『翼』の文庫化があったからこそ、鉄筆社は3期目を迎えることができました。
白石さんはさらにこんな予言も。
「『翼』の文庫化は絶対に話題になります。取材依頼もたくさんきます。すべての取材を断らずに受けてください。朝日新聞も必ず取材にきます。」
もちろん的中しました。
もうひとつ、忘れられない予言があります。2011年1月に『翼』を書き上げた白石さんの言葉です。
「この小説は必ず百万部売れます。」
これも当然、的中すると私は信じています。
黙っていても実現するということはあり得ませんが、いつか来るその日を楽しみにしながら活動に励んでいます。
(つづく)









